仏教に入門する時、苦しみがきっかけになるのが当たり前とつい思ってしまう。何かに深く悩み、仏門に入る。それはそれで、確かによくある経路だとは思う。ただ、仏教を始めた釈尊の伝記で、初めは王子様で、何不自由ない暮らしをしていた、という話が出てくる。しかし、どのような人でもやがて年老いて病を得、死ぬ事を思い、世の無常を観じて悩み、出家に至ったという。つまり、このエピソードをそのまま受け取るなら、具体的な苦しみ、例えば貧乏で苦しむとか、子供の頃に親を亡くして苦労するとか、病気で苦しむとか、そういうきっかけがあって出家したわけではないということなのだ。
自分はこれが結構大切なエピソードなんじゃないかと思っている。というのは、別に自分に苦しみがなくても、いや、世間的には何の苦しみもない幸福な境遇であればこそ、人間の逃れ難い苦しみに気づいたのではないか、と思う。
というのは、例えばお金が無くて苦しいなら、お金を稼いでお金持ちになれれば、悩みが解決すると考える。或いは、病気が治れば、少なくとも、その病気については解決したわけだ。つまり、個々の悩みがそこにあることで、却って深い悩みに気づかないということがあり得ると思う。仏様に祈って病気を治そうとしている人がいたら、それより早く病院に行った方がいいよ、という話にもなると思う。それは結局、病気を治すなら、医者や薬の方が、お祈りよりも効くからだ。
しかし、もし、そういう悩みではなくて、何か人間そのものの悩みがあるとしたら。お釈迦様は世間的の悩みがない境遇にあることで、普通の幸福が決して救い得ない深い悩みの存在に気づいた。それが無常だったのかもしれないと思う。
事実がどうであったか、私には何も分からないわけだが、そんな事を思った。幸福な王子が手にしていないもの、それが悟りだったのかもしれない、と。