野狐消暇録

所感を記す

井伏鱒二の文芸への共感と反発

井伏鱒二の世界が好きで、学生の頃はよく読んでいた。

山椒魚」や「寒山拾得」、『厄除け詩集』などだ。

しかし、働き始めてからあまり読まなくなった。のみならず、井伏鱒二の世界が嫌いになってしまった。理由は自分でもはっきりしなかったが、多分、主人公が働き者でないのが嫌だったのだと思う。自分が学生のときは、主人公が呑気に暮らしていても、一向に気にならなかった。しかし、自分が働き始めると、原稿を書くのを先延ばしにして釣りに行ったりするような呑気さに、読んでいていらいらするようになってしまったようなのである。

さて、先日「荻窪風土記」という井伏鱒二の作品を読んだ。井伏鱒二は随筆も含め、結構読んだと思うが、この作品は読んだ事がなかった。荻窪井伏鱒二が50年位住んでいたそうで、折々の町の様子や都市開発による町の変遷を描いている。

美人通りに何々商店があり、その隣は風呂屋で、といった具合に、本当にローカルな話がずっと載っている。こんなに話が細かいと、歴史の勉強と思って読むわけにいかない。でも、読み終わる頃には井伏鱒二の気持ちに読んでいるこちらの気持ちが共鳴してきて、井伏の「あの通りは昔こうだったんだ」という昔話を拝聴している気持ちになった。現在の様子を全然知らないのに「へぇ、あそこは昔そうだったのか」と何か、興味深い話を聞いている気持ちになっていた。

さて、最近自分は境遇の変化により、多少懐に余裕がある。多分それで、勤労者的でない、井伏鱒二の閑人的な文学世界に、多少共感しうる心境になったと思われる。

要は、井伏の一見するところのだらしない世界に、いらいらしにくくなったのである。

しかし、やっぱり読んでいて多少の反発を感じる。なんというか、無責任な感じを受けるのである。

そもそも、創作的な仕事というのは、いわゆる職人的な仕事と違い、仕事の見通しが立てづらいであろう事は想像できる。しかし、仕事を捨てて釣りに行くのは、やっぱり無責任な気がする。もし、見通しが立たないなら、その旨、話を通すぐらいしないと、原稿を依頼した相手に悪いではないか。別に時間に余裕があってでかけるなら分かるが、そういう風には読みづらいのである。

何かそういう、風狂なエピソードを読んで、面白いと思わなくなってしまった。むしろ、「それでいいのか」と思う側に自分が立つようになってしまったのだと思う。

モラトリアムという言葉がある。やるべきことを先においておいて、今は自由にするというような意味だったと思う。学生時代をモラトリアムと呼んだりもする。

そういう、モラトリアムの時期に旅行に行くような自由というのを、面白く感じるかどうか。試験勉強をほおって釣りに行く。そういう面白さかもしれない。

井伏鱒二の文芸への感想が、学生時代と社会人で違うのは、僕が変わったからだと思う。

井伏の世界に共感した心境のままでは、僕はきっと仕事ができるようになれなかったのだと思う。やるべきことを先延ばしにするようなあり方では、仕事に上達することは難しいからである。

だから、僕の成長過程として、井伏鱒二の文学から離れる事が必要だったのであると思う。

今後、自分は井伏鱒二の作品をもう少し読みたいと思っているが、彼の作品を読むことによって、作品の影響を受けて、僕が怠け者になる、という事はおそらくないだろう。

僕は今でも井伏鱒二の作品は好きだが、共感しきれないところがあるのは、上述の理由による。もっとも、彼が勤労を尊ぶような作品を書いたら、日本文学に残る作品になったかは怪しいし、僕が読んでいたかも怪しいとは思う。