野狐消暇録

所感を記す

静かな正月

会社では仕事、家でもちょっと仕事、そんな年だった。

年末年始も家でちょっとした仕事はありそうだけど、大体静かに暮らせそうだ。

引退したいわけではないが、しかし、人間のベースは静かな暮らしだと思う。

静かさは禅の無にも通じている。茶道が「和敬清寂」と言って、「寂」を挙げるのも、静かさが仏教の無に通じているからだと思う。

会社は何かとわちゃわちゃしている。活動する場だから、まぁ、そういうものという気もする。休みに何かをすることで、気分転換できるということもあるが、今年は静かに過ごしたい。静かさの中で、何かを得ようというのではない。ただ静かに過ごしたいのだ。

久しぶりに荷風を読み返している。荷風の小説ではなく、散歩の随筆である。「日和下駄」など。僕も散歩でもしようかいう気になる。この間歩いた、伊勢佐木町の商店街はなかなか良かった。商店街はどこもちょっとした味わいがあることが多い。ああいうところで、ふと見つけた揚げ物を買って帰って、家で食べても良い。
散歩という目的があると思えば、珈琲店にも寄りやすい。
人ぞれぞれの贅沢だから、千円の珈琲が贅沢だと思えば、そういう贅沢をしたら良いと思う。車に乗るでも、何に凝るもないのだから。せいぜい茶道が好きぐらいなのだから、珈琲が高くても、まぁいいではないか。何に金を使うつもりなのかというハナシである。
もちろん、貯金しておいても良いのだが。
荷風も日和下駄で、金を使わない楽しみとして散歩を始めたと書いている。まったく、面白い道楽のうち、金のかからないのは散歩である。珈琲も、千円出さずとも、大体自販機で140円ぐらいだ。それでも、美味しいのだ。
得難いのは、金のある暇である。それがあれば、大体、人は平穏である。

何か、当ブログのタイトルに沿った結論になった。

良いお年を。