野狐消暇録

所感を記す

英語の辞書を引く大切さ

要約

分からない英単語に出会ったときに辞書を引くのが、英語学習のコツである。

本文

英語を学んでいて、効果があった学習方法は、英語の文章と翻訳の文章を照らし合わせながら、英文を読むやり方だったと思う。その中でも特に自分が「コツ」であると思ったのは、辞書を引くことである。その言葉の意味が分からなければ、分からない分だけ、文章が確実に理解できなくなる。前後の文章からおおよその文意が推測できる事はあるが、分からなかった言葉で筆者が伝えようとしたニュアンスは抜け落ちる。だから、何はともあれ、出てきた言葉の意味を辞書で引いて掴めるなら、掴んだ方が良い。辞書を引いても意味が分からない事はあるが、それは先の課題である。単に辞書を引くだけで、意味が理解できるケースが、体感だと60%、70%ある。

なぜ辞書を引いた方が良いと思ったかというと、辞書を引く以外の方法でその言葉の意味を捕まえる事がほぼ不可能だからだ。それ以外の方法と言っても、既に言葉の意味を知っている人に聞いてみるというぐらいの話だから、辞書を引くのと意味としては一緒だ。

英語のニュースを聞いて意味が取れるということはあったが、それはどちらかというと、上達した英語を実生活に利用しているのであって、聞き取りで英語の力が上がるかというと、それほど上達はしていない気がする。発音に多少慣れるという意味はあるが、途中で意味の分からない言葉を言われたら、やっぱりわからない。

もし、聞き取りから学ぶのだったら、やっぱり聞き取れなかった言葉をどこかで調べる必要があると思う。そうしないと、その言葉はずっと分からないままである。

だから、手間ではあるが、辞書を引くのが、語学のひとつのコツであると考えるようになった。

今までは、うなぎとか、厩(うまや)とか、その場でしか使わない英単語を馬鹿にしていた。記憶力の無駄遣いのように感じていた。しかし、それは甘いのではないか。

ひとつひとつの語について辞書を引くことに喜びを感じ、例文を読むことを楽しむのでなければ、英語は上達しないに違いない。

今後は心を入れ替え、1ページ読むのに何日かかったかを気にすることなく、1冊の本を生き変わり死に変わり、輪廻転生しながら読み続ける覚悟で、無限に読み続けるのでなければならない。

そうすれば、1冊読み終わったとき、それなりに英語が理解する力が付き、無限に英文を読み続けなくても、それなりに英語を使えるようになるに違いない。

何でも、学んでいる最中は、無限に学び続けなければならない、一体自分はいつまでこの道を歩かねばならないのか、という感じがするものである。それが学ぶときに、きっと誰もが感じる事である。

その癖、3年位そういう生活を続けると、それなりに上達するものである。3年やって上達しないということはなかなかない。10年ぐらいかかることもあるはあるが。

ちなみに厩はstableである。stableに「安定」ではない、こういう意味があるんだと知り、印象的だったので覚えている。

井伏鱒二の文芸への共感と反発

井伏鱒二の世界が好きで、学生の頃はよく読んでいた。

山椒魚」や「寒山拾得」、『厄除け詩集』などだ。

しかし、働き始めてからあまり読まなくなった。のみならず、井伏鱒二の世界が嫌いになってしまった。理由は自分でもはっきりしなかったが、多分、主人公が働き者でないのが嫌だったのだと思う。自分が学生のときは、主人公が呑気に暮らしていても、一向に気にならなかった。しかし、自分が働き始めると、原稿を書くのを先延ばしにして釣りに行ったりするような呑気さに、読んでいていらいらするようになってしまったようなのである。

さて、先日「荻窪風土記」という井伏鱒二の作品を読んだ。井伏鱒二は随筆も含め、結構読んだと思うが、この作品は読んだ事がなかった。荻窪井伏鱒二が50年位住んでいたそうで、折々の町の様子や都市開発による町の変遷を描いている。

美人通りに何々商店があり、その隣は風呂屋で、といった具合に、本当にローカルな話がずっと載っている。こんなに話が細かいと、歴史の勉強と思って読むわけにいかない。でも、読み終わる頃には井伏鱒二の気持ちに読んでいるこちらの気持ちが共鳴してきて、井伏の「あの通りは昔こうだったんだ」という昔話を拝聴している気持ちになった。現在の様子を全然知らないのに「へぇ、あそこは昔そうだったのか」と何か、興味深い話を聞いている気持ちになっていた。

さて、最近自分は境遇の変化により、多少懐に余裕がある。多分それで、勤労者的でない、井伏鱒二の閑人的な文学世界に、多少共感しうる心境になったと思われる。

要は、井伏の一見するところのだらしない世界に、いらいらしにくくなったのである。

しかし、やっぱり読んでいて多少の反発を感じる。なんというか、無責任な感じを受けるのである。

そもそも、創作的な仕事というのは、いわゆる職人的な仕事と違い、仕事の見通しが立てづらいであろう事は想像できる。しかし、仕事を捨てて釣りに行くのは、やっぱり無責任な気がする。もし、見通しが立たないなら、その旨、話を通すぐらいしないと、原稿を依頼した相手に悪いではないか。別に時間に余裕があってでかけるなら分かるが、そういう風には読みづらいのである。

何かそういう、風狂なエピソードを読んで、面白いと思わなくなってしまった。むしろ、「それでいいのか」と思う側に自分が立つようになってしまったのだと思う。

モラトリアムという言葉がある。やるべきことを先においておいて、今は自由にするというような意味だったと思う。学生時代をモラトリアムと呼んだりもする。

そういう、モラトリアムの時期に旅行に行くような自由というのを、面白く感じるかどうか。試験勉強をほおって釣りに行く。そういう面白さかもしれない。

井伏鱒二の文芸への感想が、学生時代と社会人で違うのは、僕が変わったからだと思う。

井伏の世界に共感した心境のままでは、僕はきっと仕事ができるようになれなかったのだと思う。やるべきことを先延ばしにするようなあり方では、仕事に上達することは難しいからである。

だから、僕の成長過程として、井伏鱒二の文学から離れる事が必要だったのであると思う。

今後、自分は井伏鱒二の作品をもう少し読みたいと思っているが、彼の作品を読むことによって、作品の影響を受けて、僕が怠け者になる、という事はおそらくないだろう。

僕は今でも井伏鱒二の作品は好きだが、共感しきれないところがあるのは、上述の理由による。もっとも、彼が勤労を尊ぶような作品を書いたら、日本文学に残る作品になったかは怪しいし、僕が読んでいたかも怪しいとは思う。

針を抜く

去年の健康診断を覚えていた。採血の針を抜くとき、耕運機のエンジンをかける取っ手を引くように、看護師の女性に盛大に引き抜かれたのだ。

痛かった。

今年も健康診断の日がやってきて、同じ診療所で診断を受けた。

採血のとき、針を抜く直前で言った。

「そっと......」

「はい、そっと抜きますね」

看護師さんは優しく抜いてくれ、痛くなかった。

 針を抜くとき、元気よく抜いてはならない。まして、耕運機のエンジンをかけてはならない。

「銀河鉄道の夜」再読 - 命を懸けた自己犠牲

昔読んだときは、宮澤賢治の詩の世界に関心があったので、銀河鉄道の夜の持つイメージの豊かさが関心の中心にあった。

今回、改めて読んでみて、作品のテーマとして、「命を懸けた自己犠牲」という事があるんじゃないかと思った。

例えば、サソリの挿話。色々な生き物の命を取って生きてきたサソリが、自分が食べられそうになって必死で逃げる。逃げるけれども、水に落ちて死にそうになる。そのとき、サソリは「どうせ死ぬのなら、食べられてあげれば良かった。そうすれば、食べた方は一日生きられただろう」と考える。

また、難破船の挿話でも、こういう話が語られる。子供を預かっている家庭教師の青年が、船が難破して外に投げ出されたとき、自分の預かっている子供を助けようとして、救命ボートに子供を上げようとする。しかし、他の子供がたくさん乗ろうとしているのを見ると、どうしてもその人達を押し退けてまで、自分の預かっている子供を乗せてやろうという気になれない。

そして、作品そのものの話。最後、いじめっ子のザネリの命を助けるために川に飛び込んだカンパネルラは死んでしまう。

この話は、色々な形で、自分の命を捨てて他者を助ける話を書いている。それは、この作品の、少なくとも大きなテーマのひとつと言っていいだろう。

主人公のジョバンニは作品の最後、お父さんが帰ってくる事を知る。いじめの原因だった父の不在が解決され、いじめも無くなりそうな流れになる。ジョバンニの疎外は解消され、彼は自分が社会の一部に帰って行けそうになる。しかし、カンパネルラはいない。「一緒にほんとうのさいわいを探して歩いていく」はずだった一番の友人がいないのだ。

この作品は自己犠牲の尊さをどこまでも描きながら、犠牲になった人を喪失してしまった友人を描いて終わる。自己犠牲は誰かを助けながら、自己を犠牲にするというまさにそのことによって、一つの不幸を生んでしまう。この作品は終局において、自己犠牲の矛盾に辿り着いている。矛盾にまで辿り着いた作品は、自己犠牲というテーマを最後まで描いた事になり、この作品はそこで完成したのだと思う。

銀河鉄道を離れて、自己犠牲に就いて

この小説、乃至童話を読み、自己犠牲について考えてしまった。本を読み終わったときから、自分はあまり自己犠牲に共感しきれないところがあった。死ななくてもいいではないか、死なないやり方があるだろう。そういう気持ちであった。儒教の方で、体を大切にする事は孝行の始めであるという教えがあるそうだ。自分は必ずしも儒教を信奉するものではないが、やはり自己犠牲はなるべく避けるべきで、自分も助かり、周りも助かるというのが望ましいと思う。実際、人と自分の利益がぶつかるという事は、日常生活ではそれほどない。料理を作って自分が食べ、人にも振る舞うというような、みんなが助かる仕事は多いと思う。これは決して「銀河鉄道の夜」の文学作品としての価値を毀損するものではなく、単に思想と考えるのであるが、自己犠牲というのは本来はあってはならないと思う。人を助けるような人間が死ぬのはよろしくない。誰が死んでもいけないのであるが、立派な人間が亡くなるのは特に惜しく感じる。そんなわけで、カンパネルラも、実は生きていたという展開を期待したい。それでは作品にならないのは知っているが、どうしても、そうであって欲しいと願っている。

ひとりベーシック・インカム

ガイスタンディング著『ベーシックインカムへの道』 を読んで色々考えていた。

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元々ベーシックインカムには興味があったのだが、この本を読んで更にベーシックインカムは良いなと思っていた。それで最近、自分の生活もベーシックインカムにしたいと思った。

ベーシックインカムは、生活に最低限必要な額を全ての住民に定期的に審査なしで給付するというものである。これにより、生活に一定の見込みが立つようになり、生活上の不安からある程度解放される。また、実際の生活上でも多少安定が見込めるようになる。

これは、収入が人生のステージで、またその人の境遇によって大きく違う一方、生活に必要な支出は少額ながら常に一定額存在するという、収入と支出の性質の違いを埋める制度である。

この制度は非常に賢い。なぜなら、必要なお金が何かという判断をお金の使用者に委ねている。周りの人間が「当人が欲しがっているもの」を当てるのは難しい。これはプレゼントが本人の要求を満たすというより、贈った側の表現のためにあることと似ている。お金を給付する側が受給者の使い道や誰に受給するかを選ぶ事はお金の効果を目減りさせる。

お金の使い道は当人に決めされた方が、最大化されるのである。つまり、金銭的な意味で効率が良い。更に、少額、おそらく日本であれば、5万円程度を毎月支給するというのが最終的な完成形になるのではないかと思うが、毎月5万円だけ持っていて、贅沢に暮らせる人はいない。つまり、5万円はかならず生活費で消えていく。そういう意味で、行政が直接使い道に介入しない制度であるにも関わらず、いわゆる無駄遣いという事がない。もしあったとしても、せいぜい5万円であろう。次の月には次の5万円が来る。このとき、また無駄に使うとは考えづらい。やっぱり生活費が主になるであろう。

このような制度は賢いなと思って感心していた。この本、『ベーシックインカムへの道』に書いてあったアンケートで、どのようなお金の配り方が良いか人に聞いたところ、ベースラインとなる額を配り、それ以上の収入は各人に任すという案がトップだったという。そうかなるほどと思っていたが、今日、これは自分の人生でもそうだなと思い当たった。

全くお金がないのは困る。つまり貧乏は困るのであるが、かといって、ある程度以上のお金が欲しいかというと、特に欲しくはない。つまり、僕はお金をたくさん稼ぎたいのではなく、貧乏が嫌で働いているのである。しかし、今稼いでいる額はぎりぎりの生活費よりは多い。しかしこのお金も、贅沢のために使いたいかどうか。もちろん、それもあっていいはずだが、これをベーシックインカム風に使うといいのではないかと思い当たった。つまり、最低限必要なお金はもちろん使うとして、それ以上のお金は、将来歳を取って働けなくなった時のために貯金しておくのだ。つまり、すべてのお金を生活費だと思って、生活費以上のお金があるときも、そちらに回すようにし、自分の生活レベルを上げないようにする。別に、お金があるのに、風呂無しアパートにわざわざ住もうという話ではない。ただ、贅沢をしないで、常にベースの生活が保てるようにお金を使い、またお金を稼ごうと思う。

そういう風に決めてしまえば、自由になれると思う。

なぜなら、僕のお金は生活費なのだから、それ以上の事を考える必要はない。それ以外は、自分の夢に時間を使えば良いのだ。

インターネットなどの通信技術による広域コミュニケーションの意味

自分はこの事について、あまりはっきりしたことが分かっていなかったと思う。テレワークを経験して初めて、この事の大きな意味が分かった。ここに書くことは、知っている人は前から知っている事だろうが、僕には発見だった。

テレワーク

それは、テレワークになると、応募できる仕事に、「通勤できる範囲」というしばりが無くなるということである。自分がどこにいても、通信環境さえちゃんとしていれば、それで働けるのだ。もちろん、テーブルや椅子などの、勤務のための最低限の設備は要る。しかし、これも普通に賃貸住宅に設置できるものであり、それほど高価ともいえないと思う。ハードルになるというほどではない。そういうことよりも、通信環境の方が、ハードルになりやすいかもしれない。

そう考えると、フルリモート限定の仕事が仕事全体の5%だったとしても、「通勤できる範囲」という縛りが無くなって応募できる仕事の範囲が広がれば、応募できる仕事の量は、最終的にそれほど変わらないかもしれない。

外国の良質なコンテンツに届く

英語で作られたYouTubeの学習動画。オンライン学習コースなどがある。それらは通学学習の不完全な代替ではない。自分には、今までオンラインコースが何か予備的というか、弱いものという感覚があった。しかし、そうではないのだ。それは最初にそう感じるだけなのだ。そもそも、学習というのは、自分でやらねばならない事がほとんどだ。だとすると、学習に使っている意味のある時間はどのぐらいなのか。自分は通学に多くの時間を使ったと思う。また、講義は大学で確かに聞いたが、それはYouTube動画の視聴とどこが違うのだろうか。違わないのである。

同じなのだ。だったら、通学時間が節約できる動画は優れている。

動画はこちらの都合でいつでも再生できるし、巻き戻しもできる。非常に便利である。

海外の大学に行くのは大変だが、onlineコースなら届く。こういうメリットをしっかり認識して生かしていけば、非常に大きな強みになると思う。

自分で前に進む事ができる。

何かを学ぼうと思うときの障害は、かなり取り除かれていると思う。そういう事をしっかり生かしていく事が大切だ。また、仕事についても、ちゃんと自分で選びたい。単に収入だけ見るのではなく、総合的なメリットデメリットを見ることだ。フルリモートは福利厚生と同じで、月給2,3万円分の価値は優にある。だとするなら、給与が同じなら、フルリモートの方が良い事になる。そういう事を考えて進めること。