野狐消暇録

所感を記す

進世堂 / いちご大福

苺大福は季節物で出るので、年中は食べられない。それだけでなく、割と売り切れることがある。西五反田の、大通りから一歩入った住宅街に居を構える進世堂の苺大福のことである。
通りの角に建つ店は、一度入ってみたいと思わせる、少しごちゃっとした趣きがあった。それが近所の割烹望月と並び、歴史のある店という感じであった。
入ってみたい気はしていたものの、入店したのは割烹望月より後であった。望月はランチにたくさん食べられるので、もっと早くに訪れていたのだ。
最初に買ったのは確か大福であったが、やがて苺大福を食べる機会があり、気に入ったのであった。
さて、その、手に入りにくい苺大福を手に入れた。夕刻の、会社帰りのことである。とてもないと思っていたのに、十数個の苺大福が並んでいた。このままだと売れ残る気がしたが、必要十分の分量である一個を購った。この店はクレジットカードが使えるのでMasterCardで買った。210円であった。
浮き浮きした気分で夕方の西五反田を歩いた。しかし、家に帰る頃には、苺大福の事はすっかり忘れていた。それというのも、夕飯が先だったからだ。食べ終わり、妻を駅まで迎えに行くなど、しばらく過ごすうちにほっておいたヤツのことを思い出したのである。
苺大福を食わないとな。
それで食うことにしたが、何を飲もうか。手元には、緑茶と烏龍茶、濃い緑茶があった。全てペットボトルの冷たいお茶である。
苺大福を食べながら、自分は3つのお茶をそれぞれ飲んでみた。結論から述べよう。濃い緑茶が一番パンチがあり、苺大福の甘さに調和、乃至拮抗していた。しかし、穏便して爽やかなのは烏龍茶である。薄い方の緑茶はやや薄すぎて違うと思った。焙じ茶や烏龍茶といった、ある程度お茶自身に味がついている方が、苺大福には合うように思う。
店員さんとも顔馴染みになった。しばらく経ったらまた行ってみよう。

酒を飲まない人の一杯

酒を飲む習慣がない。飲み会に出たり、人と会ってお酒を飲むことはあるけど、家で一人で飲みはしない。偉ぶっているのではなく、多分体質で、お酒を飲みたいと思わない。酒を飲むときも、酒が美味しいからではなく、人との付き合いで飲むのだ。

しかし、酒を飲まないからといって、くつろぎたい気持ちがないわけではない。酒飲みと同じように、くつろぐ時間、晩酌の時間が欲しい。

どうしたら良いか。

つまみを食べる

これは昔やっていた。つまみと炭酸系の清涼飲料水を飲むパターンだ。悪くなかったと思う。しかし、今思えばまだまだだ。

糖分の入っていないお茶と甘味

これが一番かなぁと今は思っている。

(例)

  • チョコレート + 抹茶
  • 棒アイス + 無糖紅茶
  • 果物セット + 紅茶

お茶は温かくても良いが、冷たくても良いと思う。

甘さを食べ物に任せ、お茶はすっきり系で砂糖を抜くと良い。

これが今は一番好き。

余談

学生のとき、茶道研究会にいたんだけど、やっぱり甘いお菓子と砂糖無しのお茶に回帰した感じ。この組み合わせは鉄板。抹茶と主菓子にこだわらず、お茶 + 甘味の組み合わせで、色々食べたい。

 

猫になります

急にそんなこと
言われても困るよ
僕はずっと人として生きてきた。
友達や家族、仕事はどうするんだい?
急に猫になるだなんて

みんな猫ではないんだ。
みんな人なんだよ。
君だけ猫になって
本当に驚いた。

友達や家族、仕事はどうするんだい?
君にはまだ
僕の言葉が聞き取れるかい?

英語の辞書を引く大切さ

要約

分からない英単語に出会ったときに辞書を引くのが、英語学習のコツである。

本文

英語を学んでいて、効果があった学習方法は、英語の文章と翻訳の文章を照らし合わせながら、英文を読むやり方だったと思う。その中でも特に自分が「コツ」であると思ったのは、辞書を引くことである。その言葉の意味が分からなければ、分からない分だけ、文章が確実に理解できなくなる。前後の文章からおおよその文意が推測できる事はあるが、分からなかった言葉で筆者が伝えようとしたニュアンスは抜け落ちる。だから、何はともあれ、出てきた言葉の意味を辞書で引いて掴めるなら、掴んだ方が良い。辞書を引いても意味が分からない事はあるが、それは先の課題である。単に辞書を引くだけで、意味が理解できるケースが、体感だと60%、70%ある。

なぜ辞書を引いた方が良いと思ったかというと、辞書を引く以外の方法でその言葉の意味を捕まえる事がほぼ不可能だからだ。それ以外の方法と言っても、既に言葉の意味を知っている人に聞いてみるというぐらいの話だから、辞書を引くのと意味としては一緒だ。

英語のニュースを聞いて意味が取れるということはあったが、それはどちらかというと、上達した英語を実生活に利用しているのであって、聞き取りで英語の力が上がるかというと、それほど上達はしていない気がする。発音に多少慣れるという意味はあるが、途中で意味の分からない言葉を言われたら、やっぱりわからない。

もし、聞き取りから学ぶのだったら、やっぱり聞き取れなかった言葉をどこかで調べる必要があると思う。そうしないと、その言葉はずっと分からないままである。

だから、手間ではあるが、辞書を引くのが、語学のひとつのコツであると考えるようになった。

今までは、うなぎとか、厩(うまや)とか、その場でしか使わない英単語を馬鹿にしていた。記憶力の無駄遣いのように感じていた。しかし、それは甘いのではないか。

ひとつひとつの語について辞書を引くことに喜びを感じ、例文を読むことを楽しむのでなければ、英語は上達しないに違いない。

今後は心を入れ替え、1ページ読むのに何日かかったかを気にすることなく、1冊の本を生き変わり死に変わり、輪廻転生しながら読み続ける覚悟で、無限に読み続けるのでなければならない。

そうすれば、1冊読み終わったとき、それなりに英語が理解する力が付き、無限に英文を読み続けなくても、それなりに英語を使えるようになるに違いない。

何でも、学んでいる最中は、無限に学び続けなければならない、一体自分はいつまでこの道を歩かねばならないのか、という感じがするものである。それが学ぶときに、きっと誰もが感じる事である。

その癖、3年位そういう生活を続けると、それなりに上達するものである。3年やって上達しないということはなかなかない。10年ぐらいかかることもあるはあるが。

ちなみに厩はstableである。stableに「安定」ではない、こういう意味があるんだと知り、印象的だったので覚えている。

井伏鱒二の文芸への共感と反発

井伏鱒二の世界が好きで、学生の頃はよく読んでいた。

山椒魚」や「寒山拾得」、『厄除け詩集』などだ。

しかし、働き始めてからあまり読まなくなった。のみならず、井伏鱒二の世界が嫌いになってしまった。理由は自分でもはっきりしなかったが、多分、主人公が働き者でないのが嫌だったのだと思う。自分が学生のときは、主人公が呑気に暮らしていても、一向に気にならなかった。しかし、自分が働き始めると、原稿を書くのを先延ばしにして釣りに行ったりするような呑気さに、読んでいていらいらするようになってしまったようなのである。

さて、先日「荻窪風土記」という井伏鱒二の作品を読んだ。井伏鱒二は随筆も含め、結構読んだと思うが、この作品は読んだ事がなかった。荻窪井伏鱒二が50年位住んでいたそうで、折々の町の様子や都市開発による町の変遷を描いている。

美人通りに何々商店があり、その隣は風呂屋で、といった具合に、本当にローカルな話がずっと載っている。こんなに話が細かいと、歴史の勉強と思って読むわけにいかない。でも、読み終わる頃には井伏鱒二の気持ちに読んでいるこちらの気持ちが共鳴してきて、井伏の「あの通りは昔こうだったんだ」という昔話を拝聴している気持ちになった。現在の様子を全然知らないのに「へぇ、あそこは昔そうだったのか」と何か、興味深い話を聞いている気持ちになっていた。

さて、最近自分は境遇の変化により、多少懐に余裕がある。多分それで、勤労者的でない、井伏鱒二の閑人的な文学世界に、多少共感しうる心境になったと思われる。

要は、井伏の一見するところのだらしない世界に、いらいらしにくくなったのである。

しかし、やっぱり読んでいて多少の反発を感じる。なんというか、無責任な感じを受けるのである。

そもそも、創作的な仕事というのは、いわゆる職人的な仕事と違い、仕事の見通しが立てづらいであろう事は想像できる。しかし、仕事を捨てて釣りに行くのは、やっぱり無責任な気がする。もし、見通しが立たないなら、その旨、話を通すぐらいしないと、原稿を依頼した相手に悪いではないか。別に時間に余裕があってでかけるなら分かるが、そういう風には読みづらいのである。

何かそういう、風狂なエピソードを読んで、面白いと思わなくなってしまった。むしろ、「それでいいのか」と思う側に自分が立つようになってしまったのだと思う。

モラトリアムという言葉がある。やるべきことを先においておいて、今は自由にするというような意味だったと思う。学生時代をモラトリアムと呼んだりもする。

そういう、モラトリアムの時期に旅行に行くような自由というのを、面白く感じるかどうか。試験勉強をほおって釣りに行く。そういう面白さかもしれない。

井伏鱒二の文芸への感想が、学生時代と社会人で違うのは、僕が変わったからだと思う。

井伏の世界に共感した心境のままでは、僕はきっと仕事ができるようになれなかったのだと思う。やるべきことを先延ばしにするようなあり方では、仕事に上達することは難しいからである。

だから、僕の成長過程として、井伏鱒二の文学から離れる事が必要だったのであると思う。

今後、自分は井伏鱒二の作品をもう少し読みたいと思っているが、彼の作品を読むことによって、作品の影響を受けて、僕が怠け者になる、という事はおそらくないだろう。

僕は今でも井伏鱒二の作品は好きだが、共感しきれないところがあるのは、上述の理由による。もっとも、彼が勤労を尊ぶような作品を書いたら、日本文学に残る作品になったかは怪しいし、僕が読んでいたかも怪しいとは思う。

針を抜く

去年の健康診断を覚えていた。採血の針を抜くとき、耕運機のエンジンをかける取っ手を引くように、看護師の女性に盛大に引き抜かれたのだ。

痛かった。

今年も健康診断の日がやってきて、同じ診療所で診断を受けた。

採血のとき、針を抜く直前で言った。

「そっと......」

「はい、そっと抜きますね」

看護師さんは優しく抜いてくれ、痛くなかった。

 針を抜くとき、元気よく抜いてはならない。まして、耕運機のエンジンをかけてはならない。