初めて読んだのは、高校生だったと思う。面白くて、最後まで読み通してしまった。読んでいるとき面白かったし、当時、本を読むのを途中で止めるということをあまりしなかったので読み通したが、人によっては途中で読むのを止める人もいるようである。それを知ったときは、「こんな面白い本を途中でやめるのか」と思って、軽く驚いた。そのぐらい、「吾輩は猫である」は面白い。
西脇順三郎が、確か、「吾輩は猫である」を称して、随筆と呼んでいたと思う。小説という感じは確かにしない。一応、フィクションだが、内容としては随筆やエッセイに近い趣である。それで、どこからでも読める。この性質は、夏目漱石自身も自覚的だったようである。自分で確か、「金太郎飴」と言っていた気がする。ここにはすべて僕のあいまいな記憶で書いているので、調べたら違うかもしれない。
思えば、僕は小説よりもエッセイが好きであった。日本語で言えば随筆である。大学時代、夢中になって読んだのは内田百閒であった。小説も書いているが、どちらかというと、随筆で知られた作家である。
そんなわけで、漱石は「三四郎」も読んだし、「坊っちゃん」も読んだけど、ちゃんと理解できた気が全然しない。そもそも、漱石の小説は面白いのだろうか? 小説の骨格としては、鴎外の方がしっかりしていて、まだ理解が追い付くところがある。
人間には、思考の型とでもいうべきものがあると思う。大体こう考える、という流れが、良きにつけ悪しきにつけ、できてくる。
政治の意見でも、右派は大体こう考えるとか、左派はこうというまとまりがある。個々の問題に対して、人の意見が単純に二つの傾向にまとまるはずはない。問題A,B,Cに対して、右派は肯定、肯定、否定、左派は否定、肯定、否定となる、そんな単純に分かれるはずはないのだが、でも、なんとなくそういうまとまりがないこともないという風に見える。これは思考の型に従って問題A,B,Cを処理すると、こういう結論に至るという道筋がある程度あるためかもしれない。
小説の理解という点でも、鴎外の方がやや自分の頭の型に近いのかもしれない。僕は荷風も好きであって、こちらの作家も漢文的な世界観を背景として持っている。鴎外はいうまでもないことである。
夏目先生は、そうではない。江戸戯作の流れを引くという。江戸の戯作を自分ももう少し読めば、話が分かるのかもしれぬ。
話を「吾輩は猫である」に戻そう。
この話を読んだとき、いや、漱石の文章に触れたときに感じたことなのだが、ともかく表現が豊かである。鴎外がある小説で漱石に擬した登場人物の作品を評して言った、「曖昧な考えを曖昧なまま表現し、それで人が得心する」という評価が自分にはしっくりくる。明確になる前の、感じていることや、思っていること、あるいは人の姿、様子などの神羅万象を、キケロばりの冗長な文体でめぐりめぐりしながら書き、そして充分に描き切る。そこに、漱石の文章力の素晴らしさがあると思う。
漱石の思想が全面に出てくる作品にはあまり魅力を感じない。草枕も良いという人はいるが、一体文学者の思想というものは、表現としての思想であって、本当の思想ということとは違うと思う。あまり人を導く強さを感じない。思想が人を導くというより、どちらかというと、人の思想を表現したという感じである。思想に価値があるのではなく、表現したことに価値がある。
人を考えさせる。人にものの見方を示す。そういう面白さが漱石の文章にはある。
何かそういう、モノの見方の角度を人に教えるというのも、小説や文学の面白さかもしれない。
「吾輩は猫である」には、心地よい読後感というものがない。どちらかというと、悪い読後感が残る。文明批評の毒が効きすぎて、読者まで、毒に当たるのかもしれない。それがあるいは、途中で読むのを止める読者がいる理由なのかもしれない。しかし、漱石の文章の面白さは一品であり、それはこの作品で良く分かる。だから、自分は今でも「吾輩は猫である」が好きである。