野狐消暇録

所感を記す

政府の情報統制があるところには、批判に堪え得ない政策がある

中国やロシアを筆頭に、情報統制が色々な国で行われている。

中国は中国共産党への批判が禁じられているらしい。ロシアでは、戦争を批判すると目を付けられるという。政府批判も捕まったり、殺されたりするらしい。

最近ではドイツでイスラエル批判が禁じられ、ガザでのジェノサイドに声を上げることを政府が禁じた。アメリカではイスラエルとガザの戦争で、イスラエルを批判することはユダヤ人批判であると決議したと聞く。

日本では、東日本大震災原発事故のとき、事故の発表が事故の発生からかなり遅れて公表されたことを覚えている。

これらの情報統制を考えたとき、一つの共通点を指摘できると思う。それは、批判されると困ることがあるとき、政府は情報統制を行う、ということである。批判されても、いくらでも反論できるようなことについては、別に統制などしない。反論すればみんな納得してくれるし、納得してくれない人がいても少数であり、主張を通すことができる。

これに対し、公に議論すると負けそうだが、どうしても自分達の意志を通したいとき、政府は言論の統制を始める。批判を封じ、都合の悪い事実の報道を禁じ、場合によってはデマを流布して世論の誘導を図る。

こうなってしまうと、情報統制下にある人は事実に基づいて考えることができないし、できたとしても意見を公表できるのは一部の勇気ある人に限られるので、政府は意志を通すことができる。人は政府にとって都合の良い情報だけしか知らないので、政治判断は自ずと政府の意図する結論に向かいがちである。

しかし、これで良いのか。

人は事実に基づいて物事を考えねばならない。また、批判には聖域を設けず、どんなものに対しても、健全な批判が生きていなければならない。

批判の自由こそ、真の自由である。これは自分の尊敬する仏教徒である久松真一の言葉であるが、この言葉を思い起こさずにはいられない。

まず、政府は言論の自由を確保し、人が自由に議論できるように努めるべきである。そして事実を事実として知ることができるようにし、健全な理性が常に生きている社会を維持しなければならない。そうであってこそ、常に新しい社会でいられるのだ。

日本は前に進んでいるであろうか? 進んでいる分野もあるが、停滞している分野もある。再生可能エネルギーの分野は遅れている。奇しくも、情報統制が行われた、原子力発電はエネルギー政策の分野である。これは偶然であろうか?

批判のないところには停滞が待っている。そのことを忘れてはならないのである。