野狐消暇録

所感を記す

カフカ再読「判決」

一回目の読書

ふと思い立ち、カフカの「判決」を再読した。以前に読んだときは、一旗揚げようと外国に行き、全く仕事がうまくいかないのに、見栄だったり意地だったりで意固地になって国帰って来ない友人と、両親の店を継いで仕事も順調、結婚も決まって、「上から目線」で友人を見ることになった若者の困惑を読み、「起業家の友人も世の中には必要な人なのになぁ」なんて思って、二人の対比を軸に小説を読んだ。

そのときはそのときで、恵まれている貴族的な若者と、一人外国で奮闘しなければいけない友人を対比して、外国の友人にむしろ気持ちを寄せて読んだのであった。そうやって読んだときは、途中に現れる父が息子である若者に敵対的なので、そういう形でカフカが若者を批判しているのかと思った。

二回目の読書

最近、たまたま「判決」を再読したら、別の感想があった。それはこの小説が、世界の解釈をめぐる物語として読めるということであった。途中までは若者の独白を基準に世界が開けていく。先ほど書いた、外国の友人と若者の対比は、若者の独白によって作られた世界である。しかし、途中に登場した父が「異なる世界の解釈」を披露して揺さぶってくる。それは、「外国の友人は若者の創作で、本当はいない」というものである。そうは書いていないが、「自分の生活を正当化するために生み出した幻想の友人」のような意味なのかもしれない。しかし、その見方もまた、父の妄想であるようにも読める形で物語は進む。終盤まで「誰の見方が正しいのか」が分からない状態が続くのである。物語の最後に常識を代表していたかに見える若者が奇怪な行動をとり、読者は完全に足場を失ってしまう。

この小説は、同じ事実に様々な解釈が可能であることを示しながら、読者の世界に対する解釈、つまり主観的な世界に揺さぶりをかけ、安定した世界観を奪ってしまうようにできていると思う。それがとても面白い。