野狐消暇録

所感を記す

歴史という織り物

歴史の本を読んでいると、よく知らない地名、知らない人物に出くわす。今は検索サービスを使うと、インターネットで大概の情報を調べられる。それで調べてみるとなるほどとなる。そうやって芋づる式に知識が広がるのは面白い。
小説やエッセイでもことは同じだが、一つだけ異なる点がある。小説に出てきた地名を調べても、調べて出てきた情報は小説の外にある情報であり、小説は飽くまでももとのテキストで完結している。小説に付いている注釈も然りで、注釈の文章は、作者の自注を除き、それは小説の外の文章で間違いはない。
ところが、歴史書にはそれがない。注釈もまた歴史的事実に対する言及であり、歴史に関する文章である。歴史書に出てきた地名を調べると、その場所の地理的な情報が見つかるが、これもまた事実の記述である。
どこからどこまでがテキスト本文でどこから先がテキストの外、ということが原理的にないのだ。
これは私達の生きている世界が一繋がりである以上、当然のことであるが、このことが歴史書を奥深く、面白くしていると思う。
例えば、人と話すとき、ある地名を出せば、相手がその地域に縁があり、何事が知っていればそれで話が成り立つ。しかしこれがフィクション作品内の地名であれば、相手がその作品を知らない限り、話が通じることはない。
全世界の人類が尽く読んだことのある小説は何処にもないであろうが、歴史的世界の事実についてであれば、多少の差こそあれ、誰でも自分の見聞する範囲において知っているはずである。
私はこれを全世界の人が読んでいる小説のように感じる。あるエピソードでは遠い国の話として漏れ伝わった些細な噂が、別のエピソードでは中心的な物語となる。
実際、モンゴル帝国の影響は遥か東ヨーロッパにまで及び、西洋の歴史に顔を出したかと思うと、元寇という形で日本史にも登場する。
あちらの話がこちらに繋がり、こちらの話があちらに繋がる。なんと壮大で、緻密な物語だろうか。
よく推理小説などで、伏線ということが言われるが、歴史こそ、ありとあらゆる部分が互いに繋がった、大きな織り物であると言えよう。