野狐消暇録

所感を記す

トマス・ハーディ作「妻ゆえに」(To Please His Wife)の感想

最初てっきり、エミリーとシェイドラックの話だと思ったのである。その二人の恋愛から始まったので。中盤で分かったのは、主人公が嫉妬深いジョアンナであるということであった。しかし、より本質的な作者の関心は、嫉妬深い性質が人にもたらす不幸であろう。なぜ、エミリーとシェイドラックが根っからの善人であるのか?それは、作者がどうしても、嫉妬深い性質そのものを糾弾したかったからではないかと思う。なぜなら、周辺人物が悪人であれば、読者は彼らのせいで不幸になったという主人公の主張に耳を貸すことになるだろうから。エミリーとシェイドラックが善人であればこそ、ジョアンナの嫉妬深い性質がそれ自身の力で不幸を呼び寄せたのだという作者の認識が表現できるのである。子供はさらっと描かれるだけで、彼女の愛する子供という以上の役割は与えられていないようである。

それにしても、ハーディの文章は私に合うようで、惹きつけられる。この劇の登場人物に課せられた、ある意味で一面的な性格も、彼の文章の中で心地よく感じられる。

この小説で特に印象的なのは冒頭の教会のシーンであろう。教会は後半にも出てきて、そのときはジョアンナの夢想になり、さらに美しく描かれる。

この小説を読み終わったとき、ジョアンナに対する作者の非情な仕打ちに残酷であると思った。そんなにジョアンナを罰してほしくなかった。大した罪人ではない。しかし、ハーディは別に、登場人物の救済は考えなかったのだろう。ハーディは嫉妬深さのもたらす害悪についての認識を確かに小説を通して示したのだ。きっと作者としてはこう書くしかなかったのである。

しかし、最後の場面にしても、建物の新しい借り手の男は、ジョアンナに対して怒鳴ったりしたわけではなく、単に「どなたも見えられませんでしたよ」と丁寧に答えただけである。ジョアンナの周辺に悪人がいない理由は上述の事情ではないかと思うのだが、この青年もまたしかり。

しかし、この周囲の人の良い人っぷりが、この小説を一種上品にしていると思う。ジョアンナにしても、嫉妬深いはそうであるが、世間に見かける程度であって、極端な悪人ではもちろんない。何かこの、世界に悪意がない感じが、自分には好ましく感じられた。

ちょっと話は逸れるが、森鴎外舞姫を読んだとき、「誰も悪くないのに、最後に不幸が訪れる」という感じを受けた。ちょっとそれを思い出した。

脇道ついでに書くと、アニメ映画「蛍の墓」も、周囲の人が普通の人であり、それほど悪くない人であるということを描くようにしているらしい。要は、本人の行動が本人の不幸を招くということを、作者が明確にしたい場合、そうなるのだろうと思う。

しかし自分はしっかり作者の作った世界を作者と一緒に旅をし、そして作者の意図はともかく、シェイドラックにも登場人物としての好感があったので、彼の不幸には嘆息した。ある意味では、ジョアンナと運命を共にしたと言っても良い。

フィクションの登場人物にこんなことを言うのはおかしいが、ジョアンナはもうあれこれ言わずに、エミリーの親切に感謝し、家の仕事でも手伝うと良かろう。そうすれば、自分の家ではないにせよ、彼女が憧れた良い暮らしを一緒に送れるではないか。

 

-- 2022/12/30 追記

以下の論文を見つけた。

・群馬保健学紀要

 Hardy の To Please his wife をめぐって 大桃 道幸  (PDF)

https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/1571/1/KJ00004255467.pdf

この中で、夫と二人の息子が乗っていて、やがて沈んでしまう船の名前がジョアンナ号なのは、ジョアンナと一緒にいることで運命が暗転することを示唆しているとの指摘があった。暗喩ではないかというのである。これは論文を読むまで、気づかなかった。

そういえば、鴎外も「雁」の中で、医学生と結ばれない娘の住んでいる坂を「無縁坂」としている。鴎外も「舞姫」で悲劇を描いたと思うが、こんなところも似ている。