野狐消暇録

所感を記す

「銀河鉄道の夜」再読 - 命を懸けた自己犠牲

昔読んだときは、宮澤賢治の詩の世界に関心があったので、銀河鉄道の夜の持つイメージの豊かさが関心の中心にあった。

今回、改めて読んでみて、作品のテーマとして、「命を懸けた自己犠牲」という事があるんじゃないかと思った。

例えば、サソリの挿話。色々な生き物の命を取って生きてきたサソリが、自分が食べられそうになって必死で逃げる。逃げるけれども、水に落ちて死にそうになる。そのとき、サソリは「どうせ死ぬのなら、食べられてあげれば良かった。そうすれば、食べた方は一日生きられただろう」と考える。

また、難破船の挿話でも、こういう話が語られる。子供を預かっている家庭教師の青年が、船が難破して外に投げ出されたとき、自分の預かっている子供を助けようとして、救命ボートに子供を上げようとする。しかし、他の子供がたくさん乗ろうとしているのを見ると、どうしてもその人達を押し退けてまで、自分の預かっている子供を乗せてやろうという気になれない。

そして、作品そのものの話。最後、いじめっ子のザネリの命を助けるために川に飛び込んだカンパネルラは死んでしまう。

この話は、色々な形で、自分の命を捨てて他者を助ける話を書いている。それは、この作品の、少なくとも大きなテーマのひとつと言っていいだろう。

主人公のジョバンニは作品の最後、お父さんが帰ってくる事を知る。いじめの原因だった父の不在が解決され、いじめも無くなりそうな流れになる。ジョバンニの疎外は解消され、彼は自分が社会の一部に帰って行けそうになる。しかし、カンパネルラはいない。「一緒にほんとうのさいわいを探して歩いていく」はずだった一番の友人がいないのだ。

この作品は自己犠牲の尊さをどこまでも描きながら、犠牲になった人を喪失してしまった友人を描いて終わる。自己犠牲は誰かを助けながら、自己を犠牲にするというまさにそのことによって、一つの不幸を生んでしまう。この作品は終局において、自己犠牲の矛盾に辿り着いている。矛盾にまで辿り着いた作品は、自己犠牲というテーマを最後まで描いた事になり、この作品はそこで完成したのだと思う。

銀河鉄道を離れて、自己犠牲に就いて

この小説、乃至童話を読み、自己犠牲について考えてしまった。本を読み終わったときから、自分はあまり自己犠牲に共感しきれないところがあった。死ななくてもいいではないか、死なないやり方があるだろう。そういう気持ちであった。儒教の方で、体を大切にする事は孝行の始めであるという教えがあるそうだ。自分は必ずしも儒教を信奉するものではないが、やはり自己犠牲はなるべく避けるべきで、自分も助かり、周りも助かるというのが望ましいと思う。実際、人と自分の利益がぶつかるという事は、日常生活ではそれほどない。料理を作って自分が食べ、人にも振る舞うというような、みんなが助かる仕事は多いと思う。これは決して「銀河鉄道の夜」の文学作品としての価値を毀損するものではなく、単に思想と考えるのであるが、自己犠牲というのは本来はあってはならないと思う。人を助けるような人間が死ぬのはよろしくない。誰が死んでもいけないのであるが、立派な人間が亡くなるのは特に惜しく感じる。そんなわけで、カンパネルラも、実は生きていたという展開を期待したい。それでは作品にならないのは知っているが、どうしても、そうであって欲しいと願っている。