野狐消暇録

所感を記す

冬に奈良を訪れる

用件は仕事であった。

とある飲食店に導入するシステムが、正しく動作するかどうか分からないので、店舗の開店に立ち合い、正しく動作すればそれで良し、もし万が一、何か不具合があれば、原因調査や修理を行うのが任務だ。

一月も後半になり、時折り陽射しが暖かい日はあるものの、僕が住んでいる関東は真冬の寒さだった。十二月に同じ用件で京都の別の店舗に行ったとき、かなり寒かったから、奈良も寒いだろう。

「風邪を引かないように」

と僕を派遣する社長は言った。

他の業者は作業着が多いのだが、僕はソフトウェア・エンジニアなので、日頃の業務で作業着を着る事がない。またそのような会社であるから、そもそも社員が着る作業着を配布していない。お客様のいる所に行くのに、私服で行く訳にはいかないので、残る選択肢はスーツである。

スーツの上に、生地が二重になっているコートを羽織り、朝早く家を出た。最寄りの駅から新横浜駅まで電車で行き、新横浜駅から新幹線で京都に向かった。京都駅に着いた。奈良に向かう。朝の十時に現場に入る予定なのだが、間に合うだろうか。電車の乗り換えを間違えて、急行を逃したが、なんとか九時五十分に現場に入る事ができた。広い駐車場から、現場に入った旨の連絡を神奈川の事務所に入れて、ほっとした。

奈良は田舎である。広い道路が通っていて、住宅地がある。しかし繁華街がほとんどない。あるにはあるが、京都に比べると寂しい。ただ自然は美しい。木々がこんもりと茂って、色合いは柔らかい。僕はいくつか作業をしながら、折角来た奈良を楽しもうと思った。 その日の作業は、いくつかトラブルはあったものの、深夜十一時に無事終わった。親切な同業の方がいて、最寄りの駅まで、車で送って下さった。

この分だと、暇を持て余す事になりそうだ。しかし、ただ待機するという仕事なのだから、暇なのは仕方がない。何もしていないのに、賃金が発生すると考えるとおかしいが、拘束されているのだから、気にしないでいいだろう。これは休憩ではなくて、じっと待機する、という指示なのだから。

ホテルに着き、近くの松屋で遅い夕食を取って寝た。

あくる日も、同じように店舗の裏手でじっと待機を続けた。午後三時になって、仕事を切り上げる事になった。無事システムが動いているので、もう帰って良いというのだ。予定より早いが、神奈川に帰る事になった。ただ今日の宿泊予約をキャンセルしても、もうお金が戻ってこないので、泊まりたいなら泊まって良いと言われた。この日は金曜日なので、次の日は土曜休みになる。急いで会社に帰る事はない。一晩泊まって、明日は奈良観光をしようと思った。

ホテルに帰り、着替えようと思ったが、スーツを着たままベッドで寝てしまった。目を覚ますと午後七時だ。観光雑誌を買おうか。そんな事を思って近くのコンビニに寄ったが、結局雑誌は買わなかった。また簡単に食事を済ませてしまって、ホテルに帰り、今度は着替えて寝た。

深夜の十二時頃、携帯に電話が掛かってきて起きた。システム障害であった。ホテルを出て駅前のロータリーでタクシーを拾い、昼過ぎまで待機していた現場に入った。パソコンの画面を見るとすぐに原因が分かった。現場に入るまでの途次、タクシーの中で想像していたものとは違った。修復できるが少し時間がかかる。そう従業員に言うと、もう夜遅いので、お店を閉めて帰るという。社長と電話で相談し、明日の朝早く来て修復させてもらう事にした。

ホテルに帰って、急いで修復用のスクリプトを書こうとした。だが、それらしいものが書けても、本当にそのスクリプトが間違いなく動作するかどうか、確認するための開発環境がない。なんという失態か。

このままではスクリプトの動作確認ができない。開発環境を構築するしかない。しかし手元にあるのはタブレットPCと携帯だけだ。タブレットPCに開発環境をインストールしようと試みたが、失敗してしまった。タブレットPCの画面に表示されたメッセージによれば、インストールされているOSは、開発環境が想定しているものに含まれていない。止むを得ないので、ホテルを出た。向かうのはタブレットPCで調べた近くのネットカフェだ。昼間、店舗裏の駐車場で立ちっぱなしだったので、歩くと足の裏が痛い。道が分からなくなるので、電車の線路に沿って歩きたいが、幹線を歩くうち、徐々に線路から離れてしまい、結局道が分からなくなった。こんな時は携帯のGPS機能が役に立つ。なるほど、僕はここにいるのか。このまま歩けばいいのだな。しばらく歩いて、それでもやっぱり道に迷って引き返すなどした後、なんとか二十四時間開いているネットカフェに着いた。会員登録を済ませ、パソコンを使わせてもらった。タブレットPCとの格闘に時間を使ってしまったため、明け方が近い。

開発環境をインストールし、スクリプトを実行すると問題なく動作した。

夜が明け、電車が動き始めた。もう歩く必要はない。電車に乗り、現場に入ってスクリプトを流し、修復を行った。システムがちゃんと動作した。良かった。

その日はそのまま店舗の裏手で待機し、午後三時を回ったあたりで撤収した。

あまり充電しないまま使い続けていた携帯とタブレットPCは、そろそろバッテリーが切れる恐れがあった。そのため、またネットカフェに入り、電源を確保し、充電を行った。簡単な作業を行って、午後七時に奈良を離れた。八時半に京都を発ち、新幹線に乗って、神奈川に帰った。

お土産はこの話だけである。京都駅に漬け物が売っていたが、奈良に行ったのに京都の漬け物もおかしいように思って、買いそびれてしまった。近鉄を利用した時、窓の外に見た寺が、唯一の奈良見物と思う。屋根が伸びやかで、門の両脇に塀が続いていた。何もない平原にぽつんとあるので、見つけたときは驚いた。写真を撮ろうと慌てて携帯を探すうちに、電車は寺を過ぎてしまった。