わたしの尊敬する人は、
或いは、私の愛する人は、
或いは、親しみを感じる人は、
多く過去にいる。
私は、私の尊敬する人に会ってみたいが、決して会えない。
その人の、歌った月と同じ月を眺める。
時間の長さが何だろうか?
それは何でもない。
去年12月に会社を変わって、商社の社内SEになった。
自社内で使っている情報システムの保守、開発をする仕事である。
社内システムの保守、開発である。
前職ではプログラマとして働いていたが、プログラマとして開発に関わるのと比べると、以下の違いがある。
弊社はベンダーに開発を外注しておらず、自社で開発を行っている。
社内SEが実装、テストを含めた開発作業を行うため、開発のスキルが必要だが、プログラマとして働いていたので、これは既に持っている。
インフラチームは存在するが、サーバの運用、保守及びネットワークの保守を社内SEが担当している。この辺りは専門的な技術知識がない。不足しているスキルである。今は、IPAの試験「応用情報技術者」レベルの常識的な範囲の知識でお茶を濁している。
社内開発のプロジェクト・マネジメントも社内SEが担当する。外部のベンダーに開発を外出ししているわけではなく、プロジェクト規模も大きくて1人月程度なので、それほどカッチリしたマネジメントが要る訳ではない。しかし、プロジェクト・マネジメントによって工数を抑える事ができれば、望ましいには違いないので、ある程度はマネジメントが必要である。自分は所謂上流工程の仕事をした経験がないので、不足しているスキルである。見様見真似でやってみている段階である。
自分に一番欠けているのが、業務分析のスキルではないかと思っている。業務知識と呼ばれたりもするが、そもそも、業務上の問題をどうIT技術で解決するのか理解し、システムに落とし込んでいく部分である。
ここはシステム屋からみると、一番重要である。何も解決しないシステムを納品したり、使われない機能をリリースしたりすると、無駄になってしまう。
不足しているスキルを身に着けるために、勉強していきたいと思っている。
業務分析とプロジェクトマネジメントが中心になると思っている。
それにしても、現状動いているシステムは、もっと綺麗にコードを書けるはずだ。
プログラマ出身なので、今はそんなところばかりが気になってしまう。
元々、チャーチルが好きであった。かっこいいと思っていた。
ニクソンが書いた、政治家の回顧録『指導者とは』にチャーチルが「われらが時代の最大の人物」というような紹介をされていたし、チャーチルの伝記『チャーチル / イギリス現代史を転換させた一人の政治家』(河合秀和著)も読んでいて、ある程度、歴史としてのチャーチルは知っていた。
映画『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』は、実話に基づくとは言え、フィクションである。これはこれで観てみたかった。
実際観てみると、思ったより良かった。
チャーチルも、似せ過ぎない感じが良かった。体形は寄せているし、顔つきも似ているけど、良い意味でフィクションだった。
ちょっと気になったのは、チャーチルのライバルというか、敵役がチェンバレンとハリファックス外相なのだが、本当に映画で描かれたように、彼らの対独融和政策は誤りだったのか、という点である。現在から振り返れば、対独戦争で英国を率いたチャーチルが英雄なのは分かる。しかし、当時の判断としてどうだったのか?
また、ラストシーンでチャーチルは自身の徹底抗戦路線に議会の賛同を取り付けるが、その議会の熱狂が議論の正しさを裏付ける訳ではない。熱狂と言えば、ヒトラーも熱狂を引き起こす事に成功していたのである。
結局、あまり映画の世界と現実を安易に結び付けても良くないという、つまらない結論が待っているだけなのであるが、事実を元にした映画だけに、「現実ではどうだったのか」という関心を呼び起こすところがある。
事実の映画への反映という点では、チャーチルが常に演説の原稿を用意していたのは史実である。チャーチルが演説の原稿を作る場面が映画で多く出てきて、ちゃんと調べて作っているな、と思った。チャーチルは回顧録を書いているし、おそらく自分の気付かない、知らない史実も、たくさん映画に反映されているのではないかと思う。
これは映画を観たあと、ブログに書かれた批評を読んでいて気付かされたのだが、確かにセットもなかなか良かった。国王の部屋は豪華だし、街中の様子もちょっと出てくるだけだが、上品に描かれていて良かった。全体的に、画面が上品だったように思う。
「私たちは、街で、浜辺で、丘で戦う」とか、「自分が捧げられるのは、血と労苦と涙と汗だけだ」とか、お馴染みの演説も出てきて、チャーチル好きは、「ここで出てきたか」と思うだろう。「血と労苦と涙と汗」はすっかり忘れていたが、「街で、浜辺で、丘で戦う」は、「いつ出てくるだろうか? ラストかな?」と考えながら観ていた。この映画とは関係ないが、東西冷戦の時の「鉄のカーテン」はチャーチルの言葉らしい。やっぱり、文学的なところが、チャーチルにはあったのだろう。
自分としては、観て損がない映画だった。
人に薦められるかと聞かれれば、こう答える。
「チャーチルが好きなら観よ! そうでなければ、君に任せる!」
メグレ警視シリーズは大好きである。出会ったのは、自分がまだ二十歳頃だったろう。自分は、ちょっと草臥れた、それでいて犯人を捕まえる名警視であるメグレが好きだった。メグレは奥さんを愛していて、二人で仲睦まじく暮らしていたが、その様子は華やかなというよりも、しっとりした感じであった。
メグレは捜査中、良くアペリチフを飲んだ。自分はお酒を飲まないので、それがどんなお酒か分からないが、食前酒という意味だそうだから、軽い、ワインのようなものかもしれない。事あるごとに酒を飲むメグレも、なかなか魅力的であった。
小説の中身は、市井の人々の暮らしの中で起きた事件を捜査する中で、関係者の人生が浮き彫りになるという趣向であった。しかし、二十歳の頃の自分は、専らメグレ警視の魅力に惹かれていたように思う。
最近、kindleでメグレ警視シリーズが安く売られているのを見つけて、久しぶりに読んでみた。最初に読んだのは、『メグレとベンチの男』で、次に読んだのが今回感想を書く、『メグレと老外交官の死』である。
あらすじを紹介すると、まず、老外交官が死ぬ。この外交官の死の真相をメグレが追うのだが、調べていくと、老外交官が上流社会のちょっとした有名人であった事が分かる。それは、外交官が、人妻と恋をしており、もう長い間、恋文のやり取りを続けていたためである。その事は、上流社会の中では周知の秘密になっていて、人妻の夫もこの事を承知していた。外交官はお金がなかったため、家柄のある恋人を妻に迎える事ができなかった。恋人は止むを得ず、今の夫と結婚した。外交官と恋人は手紙のやり取りを続けたが、それが他愛のない、子供の文通のようなものである事を知っていたので、夫はその文通を許した。
メグレは、この童話のような話に戸惑いを覚える。このような世界を実際に生きている人にリアリティを感じられなかったのだ。
メグレは捜査を続け、最後には事件の真相を掴み、事件は解決する。
事件は、メグレが信じられなかったにしろ、昔話のような世界を実際に生きている人達が、自分達の世界観に於いて行動した結果、起きた事だったのだ。
自分がこの本を読んで感じたのは、メグレ警視の魅力ではない。この小説は、徹底して人間への関心に基づいて書かれているという事である。メグレ警視も、殺人事件も、人間観察を描くための装置に過ぎない。この小説の関心は、一時代前の、古い時代の夢を今もなお生きている人への関心にある。
そういう人が、時代のリアリティからずれていて、もう現在を生きている人が共感できる枠の外にいるにしても、その事は彼らがいてはいけない事にはならない。彼らは自分達の世界で確かに生きている。この小説は、メグレの目を通して、そういう人がいるという発見を描いている。
小田急線には、良く乗っていた。
高校生の頃から乗り始め、大学でも乗っていたから、7年間も乗っていた。
小田急線で通学しているとき、片道1時間ぐらいは乗っていたから、大抵本を読んでいた。内田百閒の全集を図書館で見つけ、一冊一冊よんでいた。
久松真一の全集本も良く読んだ。特に、『茶道の哲学』は、茶道の稽古に行く前に良く読んでいた。
小田急線は良く停止した。理由は分からない。前に電車が停止しているというアナウンスがあった気もするが、あまり気にしないようにしていた。本を読んでいれば、時間の無駄ではないと思っていた。しかし、嫌がっている人は確かにいた。小田急線は停まる、なんでだと言って不満を述べていた。
www.nikkei.comこのニュースを聞いて、長年やっていた工事がこれだったかと思うと同時に、これだけ長い時間をかけた工事が完成し、関係者はとても嬉しいだろうと思った。
上記の記事中に「複々線化は1964年に計画し、89年に着工した」とあるから、工事期間だけでも、29年かかっている。
踏切を不要にする取り組みも同時に進め、こちらは東京都の事業だったようだが、これも同時に実現した。
3月17日から新ダイヤで運行するというが、実に以下のような効果がある。
以下に小田急による詳しい説明がある。
www.odakyu.jp動画による説明も分かりやすい。
www.youtube.comこれだけ効果の大きい、手間のかかる大工事を完成した技術者は、どれだけ爽快だったろうか? きっと爽快だったに違いない。大きな満足も味わったのではないだろうか?
僕も、そういう満足を感じる事がプログラムを組んでいる時にあるけれども、こんなに大きな仕事は当然の事ながら、したことがない。
こういう時に使う言葉ではないが、壮挙という感じすらする。今度実家に帰る時には、新宿駅から小田急線に乗ってみてもいいかもしれない。横浜経由で帰ると、海老名-本厚木間しか小田急線に乗らないから。
世の中に出て後、生活に追われ、ゆっくりと書物を紐解く暇も無く、ただ時間だけが過ぎてしまったが、プログラミングを学んでから、芸は身を助くとの言葉通り、いくらか仕事が軌道に乗り、休日に仕事以外の本を読むだけの余裕を得たので、かねてから希望していた数学を学ぶ事にした。
まずは線形代数に手を付ける事にして、忙しかった頃に購入し、棚で埃を被っていた数学書を取り出し、最初のページから読み始めたが、ところどころ分からないところはあるものの、思っていたほど行き詰まる事も無く、次々に読み進められて、意を強くしている。
考えてみれば、まだ解かれていない数学の難問に挑む研究者ならともかく、自分のように先人の足跡をひとつひとつ辿る人は、すでに解かれている問題の解き方を辿るのだから、行き詰まると考える方が誤っている。
ではなぜ難しいと思い込んでいたかというと、それには次のような理由があると思う。数学書は積み上げ式になっており、随筆や俳句を読むように、パッと開いたところから読む事はできない。必ず自分が理解しているところから始めて、少しづつ理解を深めていくのであり、理解していないうちに先のページをめくってみても、ほとんど何を書いてあるか分からない。チンプンカンプンであるといって良い。だから、まだ理解していない数学書を斜め読みして、その中身を類推した時には、とても難しい事が書かれているように思われる。この事が理由になり、自分は龍を前にした鼠のように、読んでいない数学書を恐ろしく感じ、難しいものと決めてかかっていたのである。
さて、先ほど芸は身を助くとの俗諺を引いたけれど、数学を一芸にして、お金を稼ぐ事もできるかもしれない。数学の先生や研究者はもちろん、自分の専門のIT技術に於いても、数学が生かされている分野は多そうだ。現に今話題になっている機械学習の技術では、統計学が生かされていると聞く。そのような分野の技術が分かるようになって、お金を稼ぐ事ができれば、数学は糊口を凌ぐ助けになる。これは今のところ、捕らぬ狸の皮算用とでも言うべきであって、何のあてもないふわふわした空想であるが、明るい未来を空想するほど愉快な事はない。その未来には望ましい成果ばかりがあるからだ。とはいえ、自分は現実を忘れて、空想ばかりしているのを良しとしている訳ではない。ただ、数学の勉強の励みとして、そのような空想をしてみるのである。