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野狐消暇録

所感を記す

『指導者とは』(リチャード・ニクソン著)を読んだ。

政治 読書

この本は、アメリカの元大統領ニクソン氏が、自ら知る世界中の指導者について記した本である。原題は、『Leaders』というらしい。

ニクソンは共和党だったから、所謂保守派に属する。取り上げた指導者も然りで、保守派が多いように見受けられる。我が日本からも、吉田茂が指導者として取り上げられている。

全体的に面白く読んだが、大きく感じた事は二つである。

ひとつは、国家の地位が今日と比べて、やや高く感じられる事である。

この本で取り上げられている政治家が活躍するのは、第二次世界大戦から、戦後にかけてである。出てくる政治家は皆、ニクソン大統領が会う事ができた指導者だから、当然そうなる訳である。それで、その頃の政治家と今日の世界の状況を照らし合わせると、第二次大戦直後の世界から今日に至るまでの歴史が、ただ滑らかに、平坦に推移した訳ではない事が感じられる。

現在の世界はテロが横行し、国際社会全体が流動化しているように見受けられる。

かつてのように国家が一つの纏まりとしてあり、国家同士が互いにビリヤードのボールのようにぶつかり合っているのではなく、国際社会全体が大きな池のようになり、国家はさながら、池の上に浮かんでいる細い紐で互いの領域を隔てているといったもので、明瞭なまとまりを失いつつあるようだ。

これは情報化の進展、貿易の発展、人の移動の増加といった事で、様々な物の行き来が激しくなった結果であろう。また、そういう交流の増加に伴って起こる様々な国際問題の解決を求める声が高くなり、国家はかつてに比べて、国際世論を無視しづらくなったのではないかと思う。

この事は、ドゴール大統領が、フランスの偉大さを強調した事を記した文章を読んだとき、特に感じた。国家主義という事が実体を持っていた時代という気がするのである。

また、当時の国連というのも、理想の産物であると同時に、一国際機関に過ぎず、大して重きを置かれていない。要は、交渉のテーブルの一つに過ぎず、このテーブルについて交渉しても良いが、場合によっては無視しても良いという感じである。

国家こそ、政治の現実であり、国際社会なるものは、今日よりも、はるかに観念的なものだったという気がする。

もうひとつは、ニクソンの政治哲学に関するものである。ニクソンは、保守政治家として、革新派の考え方を批判し、フランス革命は挫折に終わったと言っている。その理由として、革新派は破壊は出来たが、建設はできなかったのだ、としている。

同じ文脈で、中国での内戦で負け、台湾に逃れた蒋介石を評し、彼は革命家には珍しく、保守派だったと述べ、蒋は清国の腐敗を批判したが、過去を否定しようとはしなかった、過去の延長線上に未来を築こうとした、としている。

こうした箇所を読むと、この本は、世界中の指導者を取り上げた印象記ではなく、人を語りながら、己の政治哲学を語る、ニクソンの本である事が分かる。

 

------------  ここから先は、メモ風に、感じた事を記してみる。

本を読みながら、ニクソンが嫌われた理由が分かる気がした。ニクソン自身は、あまり人に好かれる所がないのだ。例えば、もしニクソンがテレビの舞台上に立っていたら、人気が出なかっただろう、と思うのだ。

彼は舞台に上がった時、自分が良く見えるように考えて、行動している訳ではない。「見られる者」として演技している訳ではなく、飽くまで関心は現在の世界に対処する事にあるのだ。ニクソンの立場に立ったつもりで、一緒に外の世界を見、どう対処したら良いか考えてみると、ニクソンに同情的にもなれるのではあるが、一切実際上の責任ある立場から離れて、例え仮にでもそうした立場に立って考える事なく、単に外からニクソンを見たら、やたらと自信家の、自分勝手な人物に見えるのではないだろうか?

例えば、車を運転している運転者を助手席から見るような具合である。車の運転について何も考えずに、運転手を見てみると、もしかしたら、そんな具合に見えるかもしれない。

自分で勝手にハンドルを握る。曲がりたいときに曲がるし、同乗者の意見は聞いているような、いないような具合で、言葉をはぐらかす。話しかけるだけでイライラし、「いいから黙っていろ」と言いたげである。なぜその速度か、なぜそこでハンドルを切ったか、説明を求めても、碌な返事が返ってこない...

つまり、ニクソンの立場に立ったつもりにならないと、ニクソンの政治は理解しにくいと思うのである。政治家を単に「上に立って権力を振るっている人」として眺めてしまうと、あまり面白い気はしないし、からかいたくもなるではないか。ニクソンは特に、「偉そう」に見えたのではないかと思う。

 

  • 明治の日本

日本は一度明治の革命で民主化したが、その時参考にしたのはドイツであり、天皇という絶対君主を制度の中に残した、と書いている。第二次世界大戦で大きな失敗をする事になるドイツから、日本は近代化を学んだ事になる。

 

  • 政治信条と職業

インテリは革新派が多く、技術者は保守派が多い、とある。自分は、ソフトウェア・エンジニアである。自分の政治の見方は保守派に属すると思うが、これは職業の影響なのだろうか?

 

  • 軍事的な緊張関係にある国との外交

ソ連の外交について、ソ連の武力と同等の軍事力を保持しつつ、しかも対話を継続する事が大切だ、と述べている。西側は、経済力というカードを持っている、しかも、東側の国の民衆は、西側世界に憧れている、というのである。翻って、今日、ロシアや中国の拡張政策を目の当たりにしたとき、自分が思うのも、やはり同じである。領土問題で、日本は妥協できないだろう、しかし、交渉のテーブルから降りたらその時点で負けなのだ。例え北朝鮮相手でも、いや、北朝鮮のような危険な国であればあるほど、交渉可能な点を粘り強く探さねばならない。人の振り見て我が振り直せ、という諺がある。南シナ海の領土問題で、中国は仲裁裁判所を拒み、そのために自身の正当性を主張する機会を失ってしまった。あれがつまり、席を立った方が負けという事の意味なのだ。

 

  • 戦争の原因

ニクソンは戦争について、独自の見解を述べている。戦争の原因は武器ではない、というのである。政治によって、妥協点を見い出せなかった事が原因であり、武器を戦争の原因だとするのは、原因と結果を見誤っている、と指摘している。自分はこの言葉によって、蒙を開かれた思いがした。

日本は、かつて軍人が政治を行おうとし、第二次世界大戦で失敗した。これはおそらく、軍人が軍人の発想で政治ができると信じたためだろうと、自分は考えていた。

戦後、日本は平和国家を国是とし、歩みを進めた。しかし、日本の平和主義は、実は戦中の軍人と同じ発想になってしまっているのではないか、とニクソンの言葉から思った。なぜなら、武器によって世界を支配できると考える事と、武器を捨てる事で平和が訪れると考える事は、共に政治による問題解決を疎外しているという点で、同じだからである。ニクソンが記しているように、話し合いによる、平和裏の問題解決こそが肝であり、最も重要な事なのである。そうした政治の問題を脇に置いて、武器を取り上げたり、降ろしたりするだけでは、何も変わらないのだ。

 

  • まとめ

この本は、ニクソンが書いた本であり、その点、ニクソン自身の見解を知る事ができる利点がある。しかし、一方から見れば、ニクソンの主観を通して描かれた指導者の肖像画であり、そうした主観が、対象の理解という点で、妨げになっているという事もあるように思う。

だから、今後は、チャーチルならチャーチルの文章を読んでみたいし、指導者ではなく伝記作家が書いた政治家の伝記や、特定の人物を主役に置かない、歴史の本も読んでみたいと思う。そうしたら、きっとこの本の理解が深まるだろうし、また新しい発見もあるだろう。自分は全く政治と関わりのない生活を送っているが、こうした本を読む楽しみは、何物にも代え難い。これからも機会をみて、政治や歴史の本を読みたいと思う。

嵐の前の日の床屋

随筆

会社勤めをしている。だから、普段の生活は、規則正しい。仕事は朝の九時十五分に始まり、午後の六時十五分に終わる。仕事の内容は、SEとか、プログラマと呼ばれる仕事で、ソフトウェアを開発している。そんな規則正しい生活をしていたある日の事、社長から、ちょっとした仕事があるので、やらないかと誘われた。それは普段の仕事とは別に、毎週日曜日に会社に出て、仕事をしないかと言うのである。結婚したばかりで、お金がかかるだろうから、バイト感覚でやってくれないか。社長にそう言われて、自分もその気になり、引き受ける事にした。始めてみると、日曜日だけではとても終わらない。最初のうちは週一回日曜日のペースを守ったが、すぐに土曜日も出社するようになり、終わらない分は、自宅からリモート接続で会社のPCに繋ぎ、平日の夜に働くようになった。こうして、休日にやるつもりの事は何もできなくなり、仕事ばかりの日々となった。

髪の毛が伸びてきた。八月の半ばに差し掛かっていて、外は暑く、蒸している日がある。そんな日には、髪の毛が鬱陶しく感じる。もっと短く切って、すっきりしたい。いつもなら、休日に髪の毛を切りに床屋に行くのだが、時間がないのでそれができない。どうしようかと思って思い付いたのが、会社の帰り道に、床屋に行く方法だった。

調べてみると、新橋駅に千円カットの店が見つかった。翌日、会社帰りに新橋駅でその店を訪れた。店は、ゆりかもめ新橋駅の、改札を出て少しの所にあった。千円カットの店は、チケット制である。会計係がいないので、合理的だ。チケットを買ってしばらく待ち、席に座って、髪を切ってもらった。

最初にどう切るかを聞かれた。ここはいつも少し困るが、「短くしてくれ」と言った。考えてみると、皆短くしてもらいに床屋に来ている。他の床屋なら、パーマをかけるとか、何か別の用事があるかもしれないが、ここは千円でカットする事が全ての前提となっている店だ。僕の注文は、「カットしてくれ」と言っているに等しい。

しかし、更に突っ込んで考えてみると、自分の返答は決しておかしなものではない。なぜなら、この返答は「どちらかというと短めに切ってくれ」という要求であり、別に「今と比較して短くしてくれ」という要求ではないからだ。理髪師はその辺りの解釈を間違える事なく、一般的な長さよりも短めに切る事を承諾し、髪を切り出した。

さて、担当になった理髪師は、しばらく黙って髪の毛を切っていたが、ふと、

「明日は台風が来るようですね」

と言った。

自慢になってしまうが、自分は世間話がうまいと思っている。それはあるコツを知っているからだと思う。そのコツは何かというと、相手に話を合わせて、ちょうど漫才師が合いの手を打つように、会話する事である。この時の自分が、まさにそうであった。

「ああ、そうなんですか?」

自分は答えた。

「もうだいぶ近づいているようですよ。九州の方は」

始めて会った人と話すことは天気の事と決まっているし、まして台風が近づいているとすれば、誰しもそんな話がしたくなる。理髪師と散髪中に話す事は珍しくないし、ここまでは何も、不思議ではなかった。

それから少し、台風の話が続いた後、理髪師は話頭を転じた。

「ちょうど、今頃、終戦記念日の頃の事でした」

自分はその言葉で、今日が八月十五日か、その前後である事を知った。

「もう、二十年ぐらい前の事ですがね、私は友達に誘われて、八丈島にある友達の親戚の家に遊びに行ったんです。とても綺麗な海岸と海でした。南の島ですね。たしかフェリーで行ったと思います。その彼の親戚の家の玄関に、コップに入った水が置いてあるんです。玄関の両脇に置いてある。何だろうと思ったんです。何だと思います?」

「塩が盛ってあるという事ではなくてですか。魔除けか何かで、玄関の両脇に塩を盛る習慣の事は知っていますが」

「コップです。それで、その家でお世話になったおばさんに尋ねると、幽霊が出ると言うんです」

「え、幽霊ですか」

「はい。なぜというと、第二次世界大戦で、八丈島も戦場になり、多くの兵士が亡くなったのですが、兵士の中には、まだ自分が死んだ事に気付かずに、戦い続けている者がいるそうで」

「横井軍曹みたいですね」

この辺の相槌が、自分が先に述べた所の、世間話のコツである。

「はい。それで、その日、家に泊めてもらったのですけれど、見ちゃったんです」

「というと」

「友達とは別の部屋に寝たのですが、その部屋が広い。広い部屋の片側が庭に面していて、ガラスの戸が並んでいました。そこのカーテンが開けてあったんです。私は横になっていましたが、あまり寝付けず、ふと庭の方を見ると、誰かが立っていました。庭の外にです。不思議に思い、声を掛けました。しかし、返事がない。返事をせずに、ずっと立っているのです。事、此処に至って、ようやく事態を飲み込んだ私は、布団を頭からかぶりました。そして、知りもしないお経を滅茶苦茶に唱えたのです。二十分ぐらい経ったでしょうか。布団をのけて頭を出してみると、庭の外の男はいなくなっていました。それでほっとしまして、翌日おばさんに話すと『見ちゃいましたか』と言われて、やっぱりそれが、八丈島で無念のうちに亡くなった、日本兵の幽霊だと分かりました。翌日の晩は、友達と同じ部屋に寝まして、今度は何事も起きずに朝を迎えました。そんな事がありましたよ」

自分は幽霊よりも、そんな面白い事を話す、この理髪師が興味深かった。

「それは怖いですね」

世間話がお上手な自分は、適当な相槌を打った。その相槌に乗せられたか、或いは、やってくるお客さんみんなに話しているのか、理髪師は話し続けた。

八丈島も戦場でしたが、硫黄島もそうでした。あの辺りはみな戦場になりました」

「ああ、そうでしょう。『硫黄島からの手紙』という映画にもなりましたし、話には聞いています」

「硫黄島の戦いには、叔父も参加していました。叔父は終戦後、しばらく経ってから長崎に帰りましたが、その時は家族みんな驚いたそうです。てっきり亡くなったと信じていたので」

「ああそうですか」

硫黄島の戦いを取り上げたドキュメンタリーをテレビで見た事がある。日本兵の生還率は10%とかなんとか、正確な数字は忘れたが、とても低かったはずだ。この理髪師の叔父は、その戦いを生きて帰ったというのだろうか?

「叔父は、こっちの方で」

と理髪師は二人の目の前にある鏡に向かい、自分の頬に指を当てて上から下へ、指を滑らして見せた。

 「ああ、やくざの」

「そうなんです。それで、戦場でも、上官を脅していたんです。いつか戦争が終わって内地に帰ったら、お前をひどい目にあわすぞ。俺にはそれができる。そう言っていたから、虐められなかった。それで、硫黄島の戦いでも、穴の中で追いつめられると、皆自殺する。叔父も拳銃を渡されて、死ぬように言われたんですが、元々やくざだから、国のために死ぬ気が全くない」

「ははあ、天皇陛下万歳、という人ではなかった」

「そうなんです。それで自殺しないで、却って、上官に、死にたいなら死ねと。それで上官は自殺したのですが、叔父は死なずにいた。しばらくすると、アメリカ兵がやってきたので、降伏したのです」

「なるほど」

「アメリカの捕虜になったのです。それで、日本に帰るのが遅れた。まあ帰ってきたときは、みんな驚いたんですが、でも、いい人でしたよ、叔父は」

「そうですか」

「私も、子供の頃、可愛がってもらいました。ある日、叔父が子供の私を見て、『お前はやくざに向いている、学校を出たら、うちに来い』なんて言って。母がやめてくれと言って叔父を止めましたが、あれがなかったら、私は床屋なんかしていなかったかもしれない」

「そうすると、お母さんのお蔭ですね」

自分は笑って言った。

「そうなんです。ただ、叔父は私には優しかったのでね。そんなに悪い人という気もしないのですが、叔父が亡くなった時には母が『亡くなってくれて、ありがとう』と言っていました」

これで、理髪師の話はおしまいである。この文章は、理髪師の話を記すためのものだから、自分もここで筆を擱く事にする。

鶏の足を食う

随筆

ある日の夜、フェンが僕にこう聞いた。

「鳥の足あるよ。ゆうゆ鳥の足食べるか」

ゆうゆというのは、フェンが僕を呼ぶ時の呼び名である。

「いいよ」

僕は断った。

鳥の足というのは、中国で食べる物で、鶏の後足を甘辛い味付けで煮て、足指のひとつひとつの周りに付いている皮を食べるのである。味と食感は、焼き鳥の皮を思って貰えれば正しい。

確かに味は美味しいが、ちょっとグロテスク過ぎて、自分は食べる気がしないのだ。

鶏肉は鍋にすると美味しいが、鍋にする鶏は、鶏が生きていた時の原形をとどめていない。しかし、これは指や指の節の形がはっきり残っているのできつい。それでも、山東済寧市を訪れた時には、「これも経験だ」と思って食べたのである。その時に一緒に出たトサカは流石に食べられなかった。「これも経験だ」とは思えなかったのだ。経験したくなかった。

一晩寝て起きて、冷蔵庫を開くと、クリスマスチキンのような、骨付き鶏もも肉が入っていた。

「鳥の足というのは、この事だったのか」

僕は合点した。

そして、夜、「鳥の足」を食べた。

足というのは、部位を示す言葉であるが、その指示する範囲は広い。フェンにそれを教わった。

『アデナウアー - 現代ドイツを創った政治家』 (中公新書) を読んだ。

政治 読書

筆者も書いているように、吉田茂を想起させる政治家だ。

外交家で、ヨーロッパを志向した。戦後の礎を築いた政治家。

そうしたアデナウアーの特徴は、僕の中にある吉田茂の戦後政治のイメージと重なり合う。

ドイツでは有名な政治家だそうだが、自分は不勉強で知らなかった。

ドイツでは、ヒトラーとの対比でアデナウアーが語られる事があるそうだ。片方は、若い、ドイツを破滅に導いた政治家。片方は、年寄りの、ドイツを繁栄に導いた政治家。

ただ、僕が思うに、確かにそれもコントラストの強い対比にはなるが、あまりにも違い過ぎて、比較するのが難しい。それよりも、僕が面白いと思ったのは、本書の中で語られる、アデナウアーの政治と、ヒトラー台頭以前のドイツがそうであった、人の意見を全て平等に扱う民主政治との対比である。

アデナウアーの政治は、民主主義を志向したものでありながら、権威主義的、家父長的であり、ドイツがヒトラー台頭前にそうであったような、単に人の意見を全て平等に扱うという立場ではなかったという指摘が本書の中で出てくる。

これは民主主義そのものを否定的に扱う政党の活動、第一次大戦後当時の共産党ヒトラーナチス党などの活動を許した事が、ドイツを破滅に導いたとの認識から、アデナウアーが取った方針らしい。ナチスに代表される極右、共産党に代表される極左的な活動は全体主義を目指し、結果として民主主義そのものを破壊するとの認識である。戦後のドイツ政治はこれらの主義主張に対し、第二次世界大戦前のような融和的な方針を取らなかった。その戦闘的な態度は「戦う民主主義」と呼ばれているそうである。

この事を自分なりに考えてみる。

① 民主主義には、政治対立を社会の内部に取り込むという意味がある。政治上の意見の対立があっても、それは議会での議論や、選挙を通して、社会の内部で解決され、基本的には武力革命、内乱といった事態にはならないのである。もちろん、その国の一部が独立してしまえば、対立は国家間のものとなり、両国を通して行われる民主主義的な枠組みがない限り、戦争も起こり得る。アメリカの南北戦争のような場合である。しかし、もうその時には、民主主義は対立国を内包する形では存在していないのであるから、それは民主主義の限界というよりも、民主主義の外側に問題が移ってしまったというべきだ。民主主義が成立している枠内において、民主主義が政治の変化を内包しているという事実に変わりはない。

② そうした前提に立って、第一次世界大戦後のドイツにおける民主主義を振り返った時、政治変化を社会内部に取り込むはずの民主主義のシステムが、民主主義そのものを破壊するような全体主義政党の活動までを含めて政治の自由を認めたために、結果として民主主義そのものがなくなってしまったとの反省があった。①で述べたように、民主主義自身は、現在民主主義が機能しているのが特定の国家内であるとの理由から、国家間の戦争に対する直接の歯止めにはならないものの、その思想そのものが戦争に対して批判的である。その理由は、民主主義が成り立つ枠内との制限はあるものの、政治問題を議論や投票によって平和的に解決できるという事が民主主義のシステムの主張であるためである。そのような考えの元に運営されている国にとって、戦争や革命はもはや止むを得ない政治の手段ではなく、単に民主主義が実現していない事によって起こる惨禍に過ぎない。つまり、戦争及び革命は避けられる不幸であると考えられるのである。全体主義であるナチスドイツの活動は、武力によって自己を拡張しようという運動であり、政治問題の平和的解決を主張する民主主義とは相容れないものである。

③ 上記①②を踏まえて出てくる結論は、以下である。

1.民主主義自身は、特定の政治的な主張を持たず、単に政治問題を解決する仕組みを提供する。

2.しかし、民主主義の政治問題解決システムそのものを破壊するような政治的な主張に対しては、これを拒絶するべきである。

 

つまり、民主主義体制は、民主主義を否定しない範囲において政治の自由を許容すべきであり、民主主義そのものを否定するような活動を容認すべきでないという事である。これが、第二次世界大戦後のドイツが出した答えである。

 

自分自身の考えとしては、政治上の政策については、その体制如何に関わらず、その時、その場所で為すべき政策があるのであり、主権者が国民であろうと、大名であろうと、誰であろうと、変わりはないのではないかと思っている。現に、今民主主義を行っている国でも、投票率は様々であるし、国の政策を全て理解している国民は多くないであろう。斯く言う自分も、どちらかと言うと、分かっていない方に含まれる事を自覚している。

自分が重要と考えているのは、主権者が誰であるかではなく、誰のために政治を行うかである。全体主義の目的は国家であった。このために、国家のために人民を犠牲にした。これは誤りであったと思う。そうではなくて、人民のために政治を行わなければならない。しかも、一部の人のためではなく、万人のためでなくてはならない。この点を誤解していたために、ナチスドイツは失敗したのである。また、ソビエトや過去の中国の失敗も、結局は特定の階級のための政治であった事に起因するのではないだろうか? 万人のための政治でなければ、結局は行き詰ってしまうように思われる。

そうした立場から考えてみると、戦前のドイツの失敗は、全体主義が人よりも国家を優先したために起こったのである。 民主主義云々は直接の原因ではない。しかし、民主主義によって、すべての人に政治上の権利があれば、結果として、その政治は、民主主義に参加している人の範囲においては、「万人のための政治」にならざるを得ない。それであるから、民主主義を保護する事が、政治の正しい方向を保つ事に役立つと思う。

付け加えると、なぜ自分が民主主義体制そのものを擁護せず、「万人のための政治」を考えるかというと、そういう方針で行われた政治については、所謂封建的な政治体制下であろうと、社会主義体制の国であろうと、やはり正しい政治の方針として考えたいからである。つまり、社会体制に最終的な政治の根拠があるとは、考えたくないのである。

 

さて、話を元に戻すと、ドイツとしては、自分の歩んできた道を真摯に反省した結果、上述の結論に達した。この態度の先鞭をつけたのが、アドナウアーだったのである。

 

アデナウアーの政治について感じた事は他にもあるが、だいぶ長くなったので、ここで一区切りとする。

フェンの主張

随筆

「私達は一緒にいられない」

と言う。

「あと何十年かしたら、死んでしまうから」

と。

永遠に一緒でない限り、それは短い時間に過ぎない。

フェンの主張は、自分を驚かせた。

結婚したばかりで、これからずっと一緒だと思っていた自分を。

映画「クマのパディントン」を観た。

映画

自分としては、『スヌーピー THE MOVIE』が観たかったのだが、フェンが観たいと言うので、一緒に観た。これはイギリス映画らしいのだが、英文学者の吉田健一が言う所の「巨人の饗宴に列席させられている気分」がちょっとあって、「イギリスっていいよなぁ」という気持ちにさせられた。この「巨人の饗宴に列席させられている気分」というのは、ある強烈な個性を持った人間が登場して、観客がそのキャラクターに対する倫理的、あるいは世間的な判断を停止させられてしまい、何か「おお」と圧倒されてしまうような事である。ホームズや、不思議の国のアリスなどにある「イギリス的なキャラクターの強さ」というコクのある飲み物をまた飲まさせられた感じだ。

 

====================   注意   =============================

このブログは、ネタバレを大いに含むので、これから映画を観る事を楽しみにしている人は見ないでほしい。

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映画は、かなりユーモアがある感じだった。本当に、あらゆる場面にユーモアをまぶしてある。決して忘れまいとしているように、そこここにあって、僕は、映画を見て、10回以上声を上げて笑ってしまった。割と自分は、この映画のユーモアとセンスが近いらしくて、本当に笑ってしまった。

映画はファミリー映画で、パディントンと同じぐらい、パディントンを受け入れたイギリスの家族が主役だ。お父さんは、リスクを計算するのが仕事で、家にクマがいると、リスクが4000%上昇する、と計算した。もうここで面白くて笑った。お母さんは、本の挿絵画家で、ヒーローの顔をどうしようか決めかねている。こういうキャラクター、エビソードの置き方が、センスいいし、愉快だ。

お兄さんは工作少年で、色々作っているが、実験に失敗した事が原因で、父親から安全な教材しか触らせてもらえなくなってしまっている。しかし、その教材を使って、模型鉄道や模型の飛行機のようなものを作っている。何かこの、好きにやって失敗して、禁止されて猶、やろうしている感じに、面白さを感じる。

この辺は、さっき言葉を引用した僕の好きな作家、吉田健一が言う「困難を跳ね返す事に生き甲斐を覚えるイギリス人」なのかもしれない。

お姉さんは、中国語を勉強中。パディントンが来てからは、クマ語も勉強し、パディントンに「発音がいい」と褒められたりしている。

お父さんは、子供達の安全を第一に考える余り、パディントンを追い払おうとするが、お母さんがまず反対し、お兄さんもパディントンが気に入り、お姉さんも、パディントンがスリを逮捕する手柄を立ててからは、パディントンを受け入れるようになる。このパディントンというのは、あまり責任を人に押し付けるような所がなくて、なかなか男らしい、そして健気なヤツである。それで、家族に嫌がられていると知ると、置手紙を残して、一人去っていくようなヤツなのである。その場面で自分は泣きそうになるのである。感謝だけを述べ、恨み言ひとつ言わずに去っていくパディントン。自分がいるとご迷惑でしょうから、と言って去っていく独りぼっちのクマを、可哀想に思わずにいる事は、どんな人間にも難しい事である。

それで、結末は、色々な伏線を残さず回収しながら、ちゃんとオチまで行き、ご近所の意地悪なカリーさんも、結局恋の道化を演じて、観客は彼を恨まないのである。

一番の悪役の博物館の女ですら、服役の代わりのボランティア活動で、動物園の掃除をさせられたりして、あまり憎く思う事ができない。

自分は、最後まで作品を観終わってから、何か、イギリス人の好む人間性というのを、この作品はユーモアと共に、人の心に届けているような気がしたのである。

僕は漢詩が好きで良く読んでいるのだが、杜甫の詩には、ただ美しいだけではない、人間性というのが感じられて、そこに感動する。論語を読んで感じるのも、やはりある種の人間性である。

これは中国の映画ではないし、杜甫の詩や孔子の生き方とは全く異なる世界ではあるものの、やはり何か、そういう人間性の響きというのがあって、これはとても大切な物だと思った。

美しい物も良いし、面白いものも良い。ただ、何か作品に、人の心というのが宿っていると、それはまた別格の良さを持つと思う。

この作品を観て感じたのはその事である。

フェンは作品を観終わった後「人間らしい映画だ」と言った。自分は軽く驚いて「自分もそう思う」と言うと、「最初から分かっていた。観て良かっただろう」と言う。「確かに自分は、あまり期待せずに観始めたが、いい映画だったよ」と自分は答えた。

新年会

随筆

2015年が終わろうとする、暮れの12月31日、神奈川県鶴見区の自分のマンションから、妻のフェンを連れて、神奈川県厚木市の実家へ帰省した。鶴見の部屋から出発するのに少し手間がかかる。これは独身の時と少し違った点である。

寒い。

京浜東北線鶴見駅で電車に乗り、横浜駅で乗り換えて相鉄線海老名駅で乗り換えて小田急線、最寄りの本厚木駅に着いて降りる。

バスに乗ろうとして、駅に程近いバス停に行く。時刻表を見てみると、あと25分くらいバスは来ない。自分だけなら、ちょっと落胆してそのままバス停で待つところだが、フェンが少し歩こうと言う。フェンは、知らない町に着くと、歩き回って、その町を知ろうとするのである。それで少し歩いて、バスのロータリーや、その町で一番大きな図書館の前を通り過ぎたりした。

しばらくして、やってきたバスに乗り、終点で降りた。実家に着くと、両親が迎えてくれた。あまり考えたくないが、両親が歳をとったと思う。

夕食を食べて、話をする。

フェンの母国である中国の話になる。何しろ、面白いから、その話になる。僕も、この間、二人で作った餃子の話をする。

「中国では、茹で餃子を食べるんだろう」

と父が言う。

「そうそう。餃子を皮から作る」

「焼き餃子は、余った茹で餃子を食べる時にするんだってね」

父は僕が言おうとした話をちゃんと知っていた。ちょっとがっかりした。

余った茹で餃子を翌日焼き餃子にして出してくれたのは、フェンの工夫だと勝手に思っていたのだが、それが中国では普通なのだと後から知り、自分は感心したのだった。

その話をしたかったのに、先回りされてしまった。

弟も途中から加わった。

弟は、僕の見た感じ、歌舞伎役者の海老蔵風のいかついファッションになっていた。男らしいという評判だと当人が言うので、

「その言葉の裏の意味を、家族の親切で僕が教えよう。それは、怖いという事だ」

と伝えたが、

「そうかなぁ」

と響かなかった。

どうも、自分と弟はうまくいっているのか、いないのか、良く分からない。

フェンから見ると、日本人の付き合いは、とても薄いらしい。両親についても、「本当の両親なのか?」と真顔で聞かれたぐらいである。

中国の付き合いが非常に濃いのだ。僕はそう思うが、個人差もあるだろうし、真相は藪の中だ。

大晦日にしては、みんな早く寝に行ってしまって、十時には、もう寝る感じになった。僕の鶴見の部屋にあるよりもずっと大きなテレビで紅白歌合戦を少し見て、早くも布団に入る。

布団が、僕とフェンの分、二枚敷いてある。母が敷いてくれたのである。後から分かったのだが、中国では、夫婦は必ず一枚の布団で寝るらしい。それで、フェンはちょっと不満だったようである。

僕はそんな事は知らないので、今日は一人一枚、広い布団で寝られると思って、すごく嬉しかった。どうも、女の気持ちに疎いという事になりそうである。

次の日は新年で、両親におめでとうと言う。旧年中から、実家に帰った折には、どこかに出掛けたらいいと父に言われていた事もあり、どこかに行きたいと思う。

色々考えた末、近所のお寺に初詣に行く。歩いて行ったら、片道2時間もかかってしまった。小さな山を登り、山頂の観音様にお参りする。線香を束のまま焚いて、屋根の付いた丸い器の中に満たされた炭に差す。これはどういう意味があるのだろうと考えていたら、「健康になるとかね」とフェンに言われてしまった。巣鴨に行った事があって、そこに同じ物があったのだそうである。

結構な人出があった。

帰り道は別の道を通った。途中のコンビニで、「コアラのマーチ」を買って、道々食べながら行く。二人でいると、自分では買わない物を買う。近い道を通った事もあり、割合早く家に帰ったが、それでも午後2時になっていた。遅い昼御飯を食べる。

それから、何をしたのか、ちょっと忘れてしまった。確か眠かったので、ぼんやりしていたと思う。海老名に行って、閑散としたビナウォークというショッピング街を散歩し、クレープを食べて帰ってきたのだが、それはこの日だったか、それとも翌日だったか。記憶がないので、次の日、すなわち、正月2日の事に話を移す事にする。

正月の二日、姉夫婦が来て、昼から新年会をする。僕が散歩好きなフェンと一緒に、近所の公園で遊んで、帰ってきた所で新年会になった。お寿司を食べて、近況を話す。姉は、スターウォーズの新作をまだ見ていないらしい。兄弟三人のうち、一番スターウォーズが好きなのに。

姉夫婦の子が一緒に来ていて、自分はお年玉をやる。金額は五百円である。まだ2歳だから、必要ないと父は考えていたようだが、僕はやりたくてやった。五百円は安いと父に言われて、

「そんな事を言ったって、父はあげないじゃないか」

と言ったら、父は笑った。

姉夫婦から、僕とフェンの結婚のお祝いにケーキを貰う。せっかくなので、ケーキを前にして記念写真を撮る。最近良く写真を撮るようになった。

弟が、友達にもらったというドローンを飛ばそうとする。最初バッテリーが切れていて飛ばなかったが、充電すると、しっかりと宙に浮かんだ。和室の天井にぶつかったり、柱のそばに寄ったり、なかなか忙しい。しかし飛んでいる間は、水平な姿勢を保つので、自分はそこに感心した。これは難しい技術なのではないだろうか。それとも、案外簡単なのだろうか。

それから、姉夫婦の子と電車ごっこをして遊んだ。この子はいつの間にか、喋れるようになっている。「やさしい」という言葉を覚えたらしく、それを言う。それから、何か話しかけると、それを鸚鵡返しに言うのである。父は、「じいじやさしい」と言って、甥にそれを言わせている。

更に一晩寝て、翌日に鶴見に帰った。

すっかり実家でのんびりしてしまった。またしばらくしたら、実家に帰ろうと思う。こんな事が親孝行になるなら、孝行も随分優しい。