野狐消暇録

所感を記す

映画「クマのパディントン」を観た。

自分としては、『スヌーピー THE MOVIE』が観たかったのだが、フェンが観たいと言うので、一緒に観た。これはイギリス映画らしいのだが、英文学者の吉田健一が言う所の「巨人の饗宴に列席させられている気分」がちょっとあって、「イギリスっていいよなぁ」という気持ちにさせられた。この「巨人の饗宴に列席させられている気分」というのは、ある強烈な個性を持った人間が登場して、観客がそのキャラクターに対する倫理的、あるいは世間的な判断を停止させられてしまい、何か「おお」と圧倒されてしまうような事である。ホームズや、不思議の国のアリスなどにある「イギリス的なキャラクターの強さ」というコクのある飲み物をまた飲まさせられた感じだ。

 

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このブログは、ネタバレを大いに含むので、これから映画を観る事を楽しみにしている人は見ないでほしい。

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映画は、かなりユーモアがある感じだった。本当に、あらゆる場面にユーモアをまぶしてある。決して忘れまいとしているように、そこここにあって、僕は、映画を見て、10回以上声を上げて笑ってしまった。割と自分は、この映画のユーモアとセンスが近いらしくて、本当に笑ってしまった。

映画はファミリー映画で、パディントンと同じぐらい、パディントンを受け入れたイギリスの家族が主役だ。お父さんは、リスクを計算するのが仕事で、家にクマがいると、リスクが4000%上昇する、と計算した。もうここで面白くて笑った。お母さんは、本の挿絵画家で、ヒーローの顔をどうしようか決めかねている。こういうキャラクター、エビソードの置き方が、センスいいし、愉快だ。

お兄さんは工作少年で、色々作っているが、実験に失敗した事が原因で、父親から安全な教材しか触らせてもらえなくなってしまっている。しかし、その教材を使って、模型鉄道や模型の飛行機のようなものを作っている。何かこの、好きにやって失敗して、禁止されて猶、やろうしている感じに、面白さを感じる。

この辺は、さっき言葉を引用した僕の好きな作家、吉田健一が言う「困難を跳ね返す事に生き甲斐を覚えるイギリス人」なのかもしれない。

お姉さんは、中国語を勉強中。パディントンが来てからは、クマ語も勉強し、パディントンに「発音がいい」と褒められたりしている。

お父さんは、子供達の安全を第一に考える余り、パディントンを追い払おうとするが、お母さんがまず反対し、お兄さんもパディントンが気に入り、お姉さんも、パディントンがスリを逮捕する手柄を立ててからは、パディントンを受け入れるようになる。このパディントンというのは、あまり責任を人に押し付けるような所がなくて、なかなか男らしい、そして健気なヤツである。それで、家族に嫌がられていると知ると、置手紙を残して、一人去っていくようなヤツなのである。その場面で自分は泣きそうになるのである。感謝だけを述べ、恨み言ひとつ言わずに去っていくパディントン。自分がいるとご迷惑でしょうから、と言って去っていく独りぼっちのクマを、可哀想に思わずにいる事は、どんな人間にも難しい事である。

それで、結末は、色々な伏線を残さず回収しながら、ちゃんとオチまで行き、ご近所の意地悪なカリーさんも、結局恋の道化を演じて、観客は彼を恨まないのである。

一番の悪役の博物館の女ですら、服役の代わりのボランティア活動で、動物園の掃除をさせられたりして、あまり憎く思う事ができない。

自分は、最後まで作品を観終わってから、何か、イギリス人の好む人間性というのを、この作品はユーモアと共に、人の心に届けているような気がしたのである。

僕は漢詩が好きで良く読んでいるのだが、杜甫の詩には、ただ美しいだけではない、人間性というのが感じられて、そこに感動する。論語を読んで感じるのも、やはりある種の人間性である。

これは中国の映画ではないし、杜甫の詩や孔子の生き方とは全く異なる世界ではあるものの、やはり何か、そういう人間性の響きというのがあって、これはとても大切な物だと思った。

美しい物も良いし、面白いものも良い。ただ、何か作品に、人の心というのが宿っていると、それはまた別格の良さを持つと思う。

この作品を観て感じたのはその事である。

フェンは作品を観終わった後「人間らしい映画だ」と言った。自分は軽く驚いて「自分もそう思う」と言うと、「最初から分かっていた。観て良かっただろう」と言う。「確かに自分は、あまり期待せずに観始めたが、いい映画だったよ」と自分は答えた。