観雀堂日録

炎天下 痩せた雀が 低く飛ぶ

『アデナウアー - 現代ドイツを創った政治家』 (中公新書) を読んだ。

筆者も書いているように、吉田茂を想起させる政治家だ。

外交家で、ヨーロッパを志向した。戦後の礎を築いた政治家。

そうしたアデナウアーの特徴は、僕の中にある吉田茂の戦後政治のイメージと重なり合う。

ドイツでは有名な政治家だそうだが、自分は不勉強で知らなかった。

ドイツでは、ヒトラーとの対比でアデナウアーが語られる事があるそうだ。片方は、若い、ドイツを破滅に導いた政治家。片方は、年寄りの、ドイツを繁栄に導いた政治家。

ただ、僕が思うに、確かにそれもコントラストの強い対比にはなるが、あまりにも違い過ぎて、比較するのが難しい。それよりも、僕が面白いと思ったのは、本書の中で語られる、アデナウアーの政治と、ヒトラー台頭以前のドイツがそうであった、人の意見を全て平等に扱う民主政治との対比である。

アデナウアーの政治は、民主主義を志向したものでありながら、権威主義的、家父長的であり、ドイツがヒトラー台頭前にそうであったような、単に人の意見を全て平等に扱うという立場ではなかったという指摘が本書の中で出てくる。

これは民主主義そのものを否定的に扱う政党の活動、第一次大戦後当時の共産党ヒトラーナチス党などの活動を許した事が、ドイツを破滅に導いたとの認識から、アデナウアーが取った方針らしい。ナチスに代表される極右、共産党に代表される極左的な活動は全体主義を目指し、結果として民主主義そのものを破壊するとの認識である。戦後のドイツ政治はこれらの主義主張に対し、第二次世界大戦前のような融和的な方針を取らなかった。その戦闘的な態度は「戦う民主主義」と呼ばれているそうである。

この事を自分なりに考えてみる。

① 民主主義には、政治対立を社会の内部に取り込むという意味がある。政治上の意見の対立があっても、それは議会での議論や、選挙を通して、社会の内部で解決され、基本的には武力革命、内乱といった事態にはならないのである。もちろん、その国の一部が独立してしまえば、対立は国家間のものとなり、両国を通して行われる民主主義的な枠組みがない限り、戦争も起こり得る。アメリカの南北戦争のような場合である。しかし、もうその時には、民主主義は対立国を内包する形では存在していないのであるから、それは民主主義の限界というよりも、民主主義の外側に問題が移ってしまったというべきだ。民主主義が成立している枠内において、民主主義が政治の変化を内包しているという事実に変わりはない。

② そうした前提に立って、第一次世界大戦後のドイツにおける民主主義を振り返った時、政治変化を社会内部に取り込むはずの民主主義のシステムが、民主主義そのものを破壊するような全体主義政党の活動までを含めて政治の自由を認めたために、結果として民主主義そのものがなくなってしまったとの反省があった。①で述べたように、民主主義自身は、現在民主主義が機能しているのが特定の国家内であるとの理由から、国家間の戦争に対する直接の歯止めにはならないものの、その思想そのものが戦争に対して批判的である。その理由は、民主主義が成り立つ枠内との制限はあるものの、政治問題を議論や投票によって平和的に解決できるという事が民主主義のシステムの主張であるためである。そのような考えの元に運営されている国にとって、戦争や革命はもはや止むを得ない政治の手段ではなく、単に民主主義が実現していない事によって起こる惨禍に過ぎない。つまり、戦争及び革命は避けられる不幸であると考えられるのである。全体主義であるナチスドイツの活動は、武力によって自己を拡張しようという運動であり、政治問題の平和的解決を主張する民主主義とは相容れないものである。

③ 上記①②を踏まえて出てくる結論は、以下である。

1.民主主義自身は、特定の政治的な主張を持たず、単に政治問題を解決する仕組みを提供する。

2.しかし、民主主義の政治問題解決システムそのものを破壊するような政治的な主張に対しては、これを拒絶するべきである。

 

つまり、民主主義体制は、民主主義を否定しない範囲において政治の自由を許容すべきであり、民主主義そのものを否定するような活動を容認すべきでないという事である。これが、第二次世界大戦後のドイツが出した答えである。

 

自分自身の考えとしては、政治上の政策については、その体制如何に関わらず、その時、その場所で為すべき政策があるのであり、主権者が国民であろうと、大名であろうと、誰であろうと、変わりはないのではないかと思っている。現に、今民主主義を行っている国でも、投票率は様々であるし、国の政策を全て理解している国民は多くないであろう。斯く言う自分も、どちらかと言うと、分かっていない方に含まれる事を自覚している。

自分が重要と考えているのは、主権者が誰であるかではなく、誰のために政治を行うかである。全体主義の目的は国家であった。このために、国家のために人民を犠牲にした。これは誤りであったと思う。そうではなくて、人民のために政治を行わなければならない。しかも、一部の人のためではなく、万人のためでなくてはならない。この点を誤解していたために、ナチスドイツは失敗したのである。また、ソビエトや過去の中国の失敗も、結局は特定の階級のための政治であった事に起因するのではないだろうか? 万人のための政治でなければ、結局は行き詰ってしまうように思われる。

そうした立場から考えてみると、戦前のドイツの失敗は、全体主義が人よりも国家を優先したために起こったのである。 民主主義云々は直接の原因ではない。しかし、民主主義によって、すべての人に政治上の権利があれば、結果として、その政治は、民主主義に参加している人の範囲においては、「万人のための政治」にならざるを得ない。それであるから、民主主義を保護する事が、政治の正しい方向を保つ事に役立つと思う。

付け加えると、なぜ自分が民主主義体制そのものを擁護せず、「万人のための政治」を考えるかというと、そういう方針で行われた政治については、所謂封建的な政治体制下であろうと、社会主義体制の国であろうと、やはり正しい政治の方針として考えたいからである。つまり、社会体制に最終的な政治の根拠があるとは、考えたくないのである。

 

さて、話を元に戻すと、ドイツとしては、自分の歩んできた道を真摯に反省した結果、上述の結論に達した。この態度の先鞭をつけたのが、アドナウアーだったのである。

 

アデナウアーの政治について感じた事は他にもあるが、だいぶ長くなったので、ここで一区切りとする。