野狐消暇録

所感を記す

プロマネから見た開発者の訴え

割と、エラーログに吐かれたエラーメッセージに似てるな、と最近思った。

エラーメッセージを無視してはいけない。ちゃんと見なきゃいけない。そして、エラーメッセージから原因が分かるケースが半分、別の起因でそのエラーメッセージになっているケースが半分。

開発者の話も、ちゃんと聞くのが基本だが、必ずしも、解決策をそのまま教えてくれる訳ではない。解決策はやはり、自分で見つけなきゃいけない。そのためにプロジェクトマネージャがいるのだ。

ちょっとそんなことを思った。

エラーログ同様、こちらから積極的に見に行く(=開発者に話を聞きに行く)必要がある。そして、解決策はマネージャ陣で探すしかないのである。

作業者のスキル、担当作業、責任の一致

良く、「経理に詳しい者を運転手にしてはならない。それは間違った人材配置だ」ということを言うが、プロジェクトでも一緒である。作業者のスキルと担当作業を一致させることが大切である。

失敗例

デザイン担当者にXDでデザインを作ってもらい、フロントエンジニアにHTML,CSSでそのデザインを取り込んでもらうことにした。しかし、作成したHTMLに対して、デザイナーから、取り込みが不十分であるとして、無数の指摘が入り、作り直しに大きな時間を要した。

問題

フロントエンジニアはフロント側の機能の作成能力はあったが、Webデザインについては、一通り知っているだけであり、デザイナーの要求に応えることができなかった。そのため、XDで作られたデザインをHTMLでおおよそ再現することはできたが、デザイナーの要求する精度を実現できなかった。

解決策

HTML,CSSの作成作業をデザイナーに任せることにする。HTML,CSSの作成はデザインに含まれるので、デザイナー側で作成し、フロントエンジニアはこれを取り込むことにする。フロントエンジニアは取り込んだHTMLをベースに、Vue.jsでフロント側の機能を実現する。図にすると以下である。

プレゼンテーション層の実装作業をフロントエンジニアからデザイナーに変える。

プレゼンテーション層の実装作業をフロントエンジニアからデザイナーに変える。

こうすることで、担当者のスキルと担当作業が一致した。

担当者のスキルから見ると、以下の整理でいいのではないか。

担当者のスキルと実施する作業

担当者のスキルと実施する作業

こんな感じで担当を割り振れば、担当者のスキルと担当作業が一致すると思う。

2020年の抱負

仕事

昨年はどうだったか

初めてプロジェクトマネージャの仕事をさせてもらった。自分が教科書のように使っているスティーブ・マコニルの『Rapid Development』(訳:高速開発)という本を見ながらやってみた。それで消費税の増税対応は無事に終わったのだが、「高速開発」という本を読んで進めたにも関わらず、「開発が遅い」と言われてしまい、開発の高速化が課題になった。そこで、小さなプロジェクトは開発者に任せて、あまり管理コストをかけないようにし、大きめのプロジェクトだけ、工数見積もりやリスク管理などのプロジェクト管理を行うようにした。プロジェクト管理に強弱をつけるようにしたのである。

一人の開発者が2,3日で仕上げるような小さな案件は、例え後から作業が見つかって納期が遅れたとしても、ほんの数日のずれでしかない。そういうプロジェクトに手厚いプロジェクト管理は不要である。それで管理を止め、「開発者が怠けないように見張る」だけにした。そもそも、開発者を見張るという、看守みたいな仕事をするのは嫌なんだが、人によってはプレッシャーがないと働いてくれない。自主性をいつまでも期待しているわけにもいかないので、やむを得ない。あとは圧力をかけ過ぎて、開発者に焦ってバグを出されると困るのと、職場が嫌になって辞めないかなという心配である。まぁ、しょうがない。やってみるしかない。

今年の目標は?

プロジェクト管理技術がそもそも今の職場で、そこまで求められていないなーというのがちょっとある。全く要らない訳ではなく、現に今やっているプロジェクトは、管理が必要な規模である。だから、このまま今の職場で経験を積むのは良い事だと思う。

しかし、やっぱり今の職場に移って二年経ったので、そろそろ仕事に慣れてきたのは間違いない。あとは、現在の仕事をしっかりやりつつ、Next Stepを見据えてやっていかなきゃいけない。

  • 今の仕事で求められる勉強を続ける。
  • 次のステップに進むための自分の勉強をやる。

まぁ、この二つでしょう。プロジェクト管理については、もうちょっと広い視野を持ってもいいのかもしれない。いろいろ勉強を続けたい。

  • プロジェクト管理
  • IT技術
  • 語学

大体このあたりかな、やりたいのは。語学は英語と中国語だ。

仏教

昨年はどうだったか

仏教に関わることなんかしたっけというくらい何もしていない。強いて挙げるなら坐禅か。あとは茶道もちょっと仏教関係あるけど、これは心がけによってはという話なので、まぁまぁというぐらいである。要は何もしていない。

今年はどうするか

坐禅を20分ぐらいやってから、お茶を点ててお菓子を一つまみ食べるという、「ミニ(坐禅 + 茶道)」というのをやりたい。トレーニングではないが、このセットを月に3回ぐらいやるとか。そうやって、うまく坐禅や茶道を生活に取り込むというのもあるかなと思ってる。茶道と言っても、本当に抹茶とチョコレートぐらいの、誰か他人が見たら、それが茶道とは思えないぐらいの軽い茶道なんだけど。何かそういう形で、生活に取り込まないと、また何もできないで一年終わっちゃうな。

ちゃんとお寺に行って坐るというのも大切だと思うんだけどね。悟るというところまで至るには、どのぐらいやればいいんだろうな。頂上のない山を登っている気持ちで、ずっと打ち込んでいかないとダメだろうな、きっと。ただ同時に、取り組むハードルもしっかり下げて、日々の生活の中で取り組んでいきたいと思う。

そのほかのやりたいこと

  • プログラミング
  • 英語

仕事のところにも書いたけど、上記の二つは楽しみとしてもやりたい。

  • ブログ

あとは、ブログがちょっと楽しいかな。何か、読書でも、日常でも、発見があったら、ここに記していこうかな、と思ってる。

  • 散歩

あとは散歩かな。いろいろ歩きたい。目標でも何でもない、楽しいから歩きたい。

  • 茶会

あ、忘れてた、茶会を開きたい! これは僕の今年の目標だな。この目標に向けて、道具を買い揃えていっても良いな。しかし、場所をどうするか、あと、奥さんを怒らせないでどうやって茶会をやるかな。彼女は儲からない活動は人生で無意味だと信じているからな。この説得があるな。ともかく、お茶会を開くため、頑張りたい。

 いい一年にしたい。そう思ってる。

ドリトル先生はSFである。

原書の『ドリトル先生 アフリカ行き』を読み終わった

まず、めでたい。読み終わるとは思っていなかった。何しろ、英語の本を最後まで読み切ったことが、生まれてこの方一度もなかったのである。この喜びを誰に伝えようかと思って、母に電話してしまったくらいである。

さて、読み終わっての感想だが、子供の頃に日本語版を読んだとき、気付かなかった点に気付いた。

ドリトル先生はSFである

ドリトル先生シリーズの第2巻「ドリトル先生航海記」のAmazonレビューに以下がある。

この物語は、別世界を舞台にしているわけでも、魔法が出てくるわけでもありません。けれど、ドリトル先生は、魔法使いというわけではなく動物語を話せます。学習したのです。飼っているオウムのポリネシアとの会話から始めて、一つ一つ動物語を覚えていきました。(中略)動物語を話せるという設定は、魔法ほどには飛躍せず、私たちがあり得ると考えていることの延長線上にあるのです。あり得ないけれど、あったらいいなといったレベルです。
 『航海記』に出てくる漂流島もそうですね。陸地の一部だったのが本土からはなれたとき、内側の殻になったところに空気が入ったから浮いているのだと、説明がなされています。そんなアホなと思いますが、あったら楽しいな、です。
 常識と地続きのファンタジーとでも言えばいいでしょうか。(後略)

Amazonレビュー「冒険の喜びを今も伝えてくれています。」
(レビュアー ひこ・田中

www.amazon.co.jp

この「ひこ・田中」さんのレビューはなかなか鋭い。自分もこれを読んで気付かされた。ドリトル先生のエピソードは科学的、あるいは工学的な想像力に満ちている。

・王子の顔を薬品で白くする。

どうしても、白い肌になりたいと念願する黒人の王子の願いを叶えるため、ドリトル先生は薬品を混ぜたたらいの水に王子の顔を付けさせ、顔を白くする。この、「薬品を使って顔を白くする」というやり方は化学的なものである。

・たくさんの燕で船を引っ張る。

空を覆うほどたくさんの燕が細い糸を口に咥え、その糸のもう片方の端を船の先端に繋ぎ、糸で船を引っ張るという方法で、船の速力を上げる描写がある。これは工学的なやり方である。

・動物語を話す。

動物の言葉を話せたらというのは、犬が喜ぶと尻尾を振ったりするところからの連想であると思う。これも科学的な想像力であると思う。

 

このように、作中のエピソードはどれも事実とは異なる空想でありながら、しかし単なる空想とは違って、ちゃんと科学的または工学的な理由があることになっている。この点は、西遊記と比べてみると良く分かる。西遊記に出てくる孫悟空は、筋斗雲に乗って空を飛べるが、西遊記の中に、筋斗雲の飛ぶ原理についての説明はない。一方、ドリトル先生では、船の速力を上げるために「燕が糸で引いて引っ張る」という説明がちゃんと付いている。こう考えると、一々の空想に科学的な裏付けを用意しているという点で、ドリトル先生はSF的な空想であると云う事ができると思う。

作者ヒュー・ロフティングは土木技師である

これは本文から読み取ったわけではない、云わば傍証というような話なのだが、あとがきによると、作者のヒュー・ロフティングは土木技師として鉄道建設に従事していたという。つまり、もともと工学に素養があって、工学的な考え方に慣れた人が書いた物語がドリトル先生なのである。

これから

ドリトル先生航海記」を読もうかどうしようか迷っている。読んでも良い気がする。ドリトル先生の英語は優しいそうだけど、優しい英語をたくさん読むのも良いだろうと思う。仕事の本も読まなきゃいけないけど、別に楽しみの本を読んではいけないという事でもなかろう。また、ちょっとづつ読んでみるつもりだ。

静かな正月

会社では仕事、家でもちょっと仕事、そんな年だった。

年末年始も家でちょっとした仕事はありそうだけど、大体静かに暮らせそうだ。

引退したいわけではないが、しかし、人間のベースは静かな暮らしだと思う。

静かさは禅の無にも通じている。茶道が「和敬清寂」と言って、「寂」を挙げるのも、静かさが仏教の無に通じているからだと思う。

会社は何かとわちゃわちゃしている。活動する場だから、まぁ、そういうものという気もする。休みに何かをすることで、気分転換できるということもあるが、今年は静かに過ごしたい。静かさの中で、何かを得ようというのではない。ただ静かに過ごしたいのだ。

久しぶりに荷風を読み返している。荷風の小説ではなく、散歩の随筆である。「日和下駄」など。僕も散歩でもしようかいう気になる。この間歩いた、伊勢佐木町の商店街はなかなか良かった。商店街はどこもちょっとした味わいがあることが多い。ああいうところで、ふと見つけた揚げ物を買って帰って、家で食べても良い。
散歩という目的があると思えば、珈琲店にも寄りやすい。
人ぞれぞれの贅沢だから、千円の珈琲が贅沢だと思えば、そういう贅沢をしたら良いと思う。車に乗るでも、何に凝るもないのだから。せいぜい茶道が好きぐらいなのだから、珈琲が高くても、まぁいいではないか。何に金を使うつもりなのかというハナシである。
もちろん、貯金しておいても良いのだが。
荷風も日和下駄で、金を使わない楽しみとして散歩を始めたと書いている。まったく、面白い道楽のうち、金のかからないのは散歩である。珈琲も、千円出さずとも、大体自販機で140円ぐらいだ。それでも、美味しいのだ。
得難いのは、金のある暇である。それがあれば、大体、人は平穏である。

何か、当ブログのタイトルに沿った結論になった。

良いお年を。

英語の聞き取り

ドリトル先生の英文を読むようになり、この頃は英文に慣れて、聞き取りもやってみたいと思うようになった。英語で書けば、listeningである。

You Tubeで英語のGame紹介動画を見たり、ドキュメンタリーを無理やり英語で聴いてみたりしたが、聞き取れる言葉が少なすぎて、理解できない。ちょうど良いものを探すともなく探していたところ、Spotifyに英語の練習用のPodCastを見つけた。まだ、二、三話しか聞いていないが、ゆっくり話してくれるし、英語も聞き取りやすく、自分にちょうど良さそうだ。

先日聞いた話は、アメリカ英語とイギリス英語はなぜ違うかという話で、イギリス英語の方は、上流階級向けに作られた洗練された英語(Sophisticated English)で、却ってアメリカ英語の方が、アメリカに移民があった昔の、古い姿を残しているとのことであった。

このあたりの話は、柳田邦男の『蝸牛考』にある方言周圏論を想起させる。言語の伝播というのは、面白いものだと思う。

そういえば、仏教徒が行脚(あんぎゃ)と言って、「行脚」を「ぎょうきゃく」と読まないのは、この漢語が入ってきた時期の中国音を反映しているらしい。そもそも中国語では、一語につき一音なのだそうであるが、時代と共に音が変わっていくので、日本にはその言葉が伝わった時代ごとに、様々な音読みが残っている。

そう考えると、日本語など、混沌の極みではないか。英語も、イギリス内の地方によってかなり違うらしい。そういう言葉を話し、またこのように記して平気でいる人間というのは、何なのだろう。何の秩序もなしで、平気で暮らしている側面が、現代人にもあるのかもしれない。

第六十ニ回櫻門茶会

僕が学生の頃に、五十回記念のお茶会でどうという話をしていた気がする。今回は六十二回目の櫻門茶会だそうなので、あれからもう十年以上経ってしまった。茶道の歴史は四百年ぐらいあるので、それを考えたら短いけれど、自分の人生の尺で振り返ると、やっぱり長い月日である。

第六十二回の櫻門茶会は成城学園にある松花庵であった。

前日まで住んでいるマンションの部屋を片付けたり、一週間の疲れを取るために何もせずにぼうっとしたりしていたので、まだお土産を買っていなかった。午前十時頃、自分はスーツ姿で、小田急成城学園前駅に降り立ち、改札を出ると、Google Mapの道案内に頼りつつ、雨上がりの駅前を過ぎて、成城風月堂にやってきた。

成城風月堂

このお店は和菓子と洋菓子を両方とも扱っているようなのだが、ちょうど贈り物に良さそうなので、お茶会のお土産を買う事にして寄ったのである。

成城学園というと、高級なイメージがあるが、先に入っていた客もおばあさん二人で、さぞ裕福なところの方という風に見えた。店員も小奇麗にしていて、庶民風というよりは、小さな格調あるお店という構えである。店員がおばあさんに優しく振る舞っているだけで、店に品がある気がしてくるし、現に品がある店だった。

自分は日持ちしそうなお菓子を探し、入ってすぐに目についた「成城物語」というお菓子の詰め合わせを買った。熨斗をつけるか聞かれたので、「お願いします」と答えると、表書きをどうするかと言う。

咄嗟に「一応お茶会なので水屋見舞でお願いします」と答えると、ちゃんと「水屋見舞」と小筆でしたためてくれた。デパートの地下で買ったときは「水屋ってなんですか?」と聞かれたのだが、ちゃんと字が出てくるあたり、「やるな」と思ってしまった。別に剣客ではないのだから、そんなところで勝負しなくても良いのだが。

松花庵

松花庵に行く道すがら、着物姿の女性とスーツの女性が二人、連れ立って歩いてゆくのを見たので、あるいはと思ったら、やはり同じ茶会の客であった。

会釈だけして、話すでもなく、一緒に松花庵まで歩いていった。松花庵に着いてしばらくしてから、着物姿の女性は表千家看月庵で学んでいる茶道の先生であると分かった。

松花庵の玄関には、スーツ姿の学生が立っていて、どうぞと招き入れてくれた。みなさんにといって受付で水屋見舞を渡して、待合に通る。十年経っても、クロークや下足のシステムが変わっていない。進化しろとは思わないけど、半東の言葉まで変わっていないので、本当に伝統といった感じである。お陰でこちらはずっと稽古していないのに、正客のときに何を話したら良いかが分かるのだが。

待合には緋色の絨毯が敷いてあり、茶席受付が設けられていて学生が二人座っていた。自分より他に誰もいないので、一瞬間違って茶席に来てしまった気がしたが、そんなことはなかった。早い時間帯なので、まだ人が少ないだけだった。こちらはほとんど覚えていないのに、学生が顔を覚えていてくれて恐縮する。

絨毯に正座して、麦茶か、番茶のような茶色いお茶を頂いていると、すぐに席の準備ができて入ることになった。小間である。

台目席

 三客として席に入った。客は四人なので無難な順である。

軸は「紅葉満山川」で、花は寒椿と黄色いもみじである。お道具は見慣れたものだったが、当然のことながら花は今回のもので、綺麗に挿してあった。菓子は丸い主菓子で、柔らかい中間色の赤がグラデーションになっていた。会記を見ると、確か夕焼けとかそういう名前で、なるほどと思った。夕焼けには形がないが、敢えて作ると丸くなる訳なのだろう。

正客はN先生でさきほど、行きが一緒になった着物の方である。自分は細かい作法を忘れてしまったので、N先生が床を拝見すれば、自分も倣って拝見し、礼儀を守ることにした。

茶席というのは静かである。話すのは半東さんと正客だけであり、それも折々二言、三言話すだけだから、ほとんどの時間を沈黙が支配する。しかしそれがまた、不快でないのが茶席の茶席たる所以というわけで、沈黙が充実してゆくといったら良いだろうか。能を観に行ってもあることだが、退屈しない静かさというものが茶席にはある。

音というと、亭主が茶筅を調べて、静かに茶碗の縁に落とすとき、鹿威しのように竹が鳴る。この音が、無音の茶席に響くと、ますます茶道らしい感じが出てくる。

お茶を頂いて、亭主と半東に最後の挨拶をしたあと、痺れた足をゆっくりと伸ばし、ようやっと立って茶席を出た。

こうして茶席に入った時のことを振り返ってみると、扇子と懐紙が見つかって良かったと思う。お茶会の前日、あれだけ部屋を引っ繰り返して探したのに出てこなくて、「何でだろうな、毎年使っているのに、そして捨てたはずはないのに出てこない。おかしいな」と思っていたのが、今朝起きて最初に探した戸棚に入っていた。やっぱり夢で記憶を探っておいた訳なのだろうか? もっとも、それとは別にネクタイをするのを忘れてしまったが、これはまあ、客だから許してもらおう。

一つ目の席を出たところで、M先輩とお会いする。受付で名前を書くとき、先にM先輩のお名前があって、早いなと思っていた。文理学部で教えているI先輩とN先生にも、機会を見つけて挨拶をする。

茶箱

また待合で名前を呼ばれて、二つ目の席は茶箱であった。茶箱、すごいな、茶箱なんだと思って席に入った。待合の流れでN先生が「さきほどしましたので」と正客を断り、自分が正客になってしまったので、待合の絨毯を立ち上がりしな、「何か特別なことはありますか?普通の正客ですよね?」とM先輩に聞いて、M先輩も「そうそう、普通の正客」と言っていたのだが、入ってみたらとんでもなかった。そもそも、茶箱の拝見の仕方が分からない。振り出しという、金平糖が入っている菓子器の扱いで既に苦労しているのに、この上茶箱を拝見しなきゃいけない。困ったのだが、ともかく全体を見たことにして、次客に渡してしまった。すると、三客に座していたN先生が次客にいた学生に細々と拝見の仕方を教える。それを見ると、茶箱からお道具をひとつひとつ取り出して、畳の縁の内側でしっかり見ている。どうやらこれが正解である。自分は「全くお道具を見る気がない正客」になってしまった気がして、半東や亭主に申し訳なく思った。

茶箱は今まで点前を見る機会が少なかったので、所作も珍しくて面白かった。あれはやる方も覚えることが多そうである。ただ、あまりにも点前が長いので、途中、足が全く痺れて困ったが、少し姿勢を変えたりして、何とか体裁を整えた。他にちょっとしたことだが、風炉先屏風が源氏香の紋様で、お洒落だった。同級だったK君は今日インフルエンザで来れなかったのだが、学生の頃、夏の合宿で源氏香の模様を取り上げて発表していたから、来れたら良かったのにと思う。

お菓子は金平糖の他にしっかり主菓子が出て、こちらも頂いた。歳を取ったせいか、主菓子を一日にふたつも食べたくないなと思ったが、まぁ出さないわけにもいかないだろうから、これは亭主のせいではないのである。一席だけ入っていく人もいるわけなので。あとは、懐紙に包んで、持ち帰っても良かったかもしれない。おそらく、それが一番良い気がする。

席を出てから、現役生に話を聞くと、先年卒業した先輩が茶箱を買って後輩に贈ったそうで、これが今回茶箱席をやることになったきっかけとのことである。

T君と会う

茶箱席を出ると、待合いにT君がいた。久しぶりに会うが、ファッションセンスが変わっていないので懐かしい。勢い込んで話し出したが、すぐにT君が席に入ることになり、聞くとお道具がないとのことなので、咄嗟に扇子を貸した。それから困ったのは、扇子を貸したから帰れないことと、T君の入った席が茶箱席で、点前が長いものだから、延々待合に帰ってこないことである。僕がずっと待合に座り込んでいるので、現在の部長がなにか御用事でもという風に心配して声をかけてくださったぐらいである。「扇子を後輩に貸して帰れない」と答えたら笑ってそれなら良いのですということになった。

しかし、本当は扇子の件もあったが、せっかく会ったのでT君と話したかったのである。T君は席を終えて帰ってきて、それからまた二人で話し出したが、T君が二席目に入ることになったので、「積もる話もあるように思うが、自分はこれで帰ろうと思う」と言ったら、また別に機会を作ろうということになった。それで話がまとまり、T君は席に入って、自分は帰ることにした。I先輩がクロークで毎年ありがとうと言うから、こちらこそいつもありがとうございます、とお茶会のお礼を言っておいた。今、櫻門茶会以外にお茶会に行くことはないから、自分にとっては唯一のお茶会なのである。

外に出ると晴れていて、持ってきた傘は家に着くまで、ついに広げることはなかった。なんとなく充実したような心持ちで愉快であった。これも、お茶会に行ったとき、いつも感じる、不思議な気持ちである。