野狐消暇録

所感を記す

兄の事 [小説]

兄は頭が良かった。学歴的な意味でだが。それ以上の事は、こっちの頭が悪過ぎるのと、兄が早く亡くなってしまったのとで、分からないのである。
兄と自分の歳は離れている。どのぐらい離れているのかというと、僕が工業高校2年の時、兄は東京工業大学の4年生だった。兄はその時に死んでしまった。死因は自殺である。両親は兄の成績を愛していたので、かなり悲しんでいた。
僕は葬式の時、兄の恋人だったらしい人を初めて見た。さほどの美人とも思わなかったが、おとなしそうで、兄の性格を偲ばせた。
兄の事で思い出すのは、机に向かって何かしている姿である。おそらく勉強だろうと思う。僕は工業高校で出てくる数式に頭を悩ますと、兄を頼って、答えを聞いた。自分は答えを求めているのだが、兄の方がそれでは満足しなくて、必ず解法と理由を教えてくれた。僕は兄を好いていたので、うんうんと頷くことにしていた。しかし、何度も同じ事を聞くので、兄はそのうち呆れてしまったが、それでも、部屋を追い出したりしなかった。そして根気良く教えてくれた。
そのうち答えを聞くのが悪いなと思うようになったので、自分も自分で解けるように努力するようになった。兄の手を煩わせたくないと思ったのだ。そんな訳で、兄の呆れ顔が僕の成績を陰から支えていたらしい。

僕は工業高校を出ると、進学せずに仕事に就いた。自分の頭には早々に見切りを付けていたのである。両親も同じ意見だったようで、格別の反対もなかった。

今でも時々兄の事を思い出す。兄は恋人との間に何かあって、死んだのだ、と親戚が言っているのを葬式で聞いたのだが、その事を思い出す。なぜかというと、人はそんな事で本当に死ぬのかどうか、疑問に思うのだ。しかし兄が死んでしまったのは疑いようがなく、その証拠に兄はいない。僕の心に残された兄は、いつまでも優しい姿のままである。