野狐消暇録

所感を記す

面接

「学生の頃、力を入れた事は何ですか?」
大喜利です。友人と三人で大喜利に打ち込みました」
「それで得たものは何ですか?」
大喜利の答えを素早く出す力です」
「当社では大喜利はしていません。当社でその力はどう役に立ちますか?」
「立ちません」
「ではなぜ大喜利の事を話したんです?」
「聞かれたからです」
「なるほど。ありがとう。では最後にひとつ聞かせてください」
「どうぞ」
「桃太郎が鬼を退治した後、宝物を山分けしてくれと犬、猿、キジに詰め寄られて言い放った一言とは?」

カフカ再読「判決」

一回目の読書

ふと思い立ち、カフカの「判決」を再読した。以前に読んだときは、一旗揚げようと外国に行き、全く仕事がうまくいかないのに、見栄だったり意地だったりで意固地になって国帰って来ない友人と、両親の店を継いで仕事も順調、結婚も決まって、「上から目線」で友人を見ることになった若者の困惑を読み、「起業家の友人も世の中には必要な人なのになぁ」なんて思って、二人の対比を軸に小説を読んだ。

そのときはそのときで、恵まれている貴族的な若者と、一人外国で奮闘しなければいけない友人を対比して、外国の友人にむしろ気持ちを寄せて読んだのであった。そうやって読んだときは、途中に現れる父が息子である若者に敵対的なので、そういう形でカフカが若者を批判しているのかと思った。

二回目の読書

最近、たまたま「判決」を再読したら、別の感想があった。それはこの小説が、世界の解釈をめぐる物語として読めるということであった。途中までは若者の独白を基準に世界が開けていく。先ほど書いた、外国の友人と若者の対比は、若者の独白によって作られた世界である。しかし、途中に登場した父が「異なる世界の解釈」を披露して揺さぶってくる。それは、「外国の友人は若者の創作で、本当はいない」というものである。そうは書いていないが、「自分の生活を正当化するために生み出した幻想の友人」のような意味なのかもしれない。しかし、その見方もまた、父の妄想であるようにも読める形で物語は進む。終盤まで「誰の見方が正しいのか」が分からない状態が続くのである。物語の最後に常識を代表していたかに見える若者が奇怪な行動をとり、読者は完全に足場を失ってしまう。

この小説は、同じ事実に様々な解釈が可能であることを示しながら、読者の世界に対する解釈、つまり主観的な世界に揺さぶりをかけ、安定した世界観を奪ってしまうようにできていると思う。それがとても面白い。

髪を切る

髪が伸びてきたが、なるべく床屋に行きたくない。原因は例の新型コロナウイルスである。こいつのせいで外出自粛要請がかかっている。のみならず、自分も感染したくないから、外に行きたくないのだ。どうしようかなと思いながら、長くなってきた前髪と一緒に過ごしていた。

すると、妻が僕の髪を見て、切ってやろうと言う。妻は時々、僕の前髪をゴム紐でポニーテールのように縛り、邪魔にならないようにしてくれていたのだが、ついに切ってくれるようだ。

ゴミ袋を持ってきて広げ、僕はその前に座った。妻が前に座り、はさみを手に僕の前髪を切り始める。しばらく切ってくれていたが、妻が僕の顔を見て笑い始めた。

世の中には、社会的な笑顔とでもいうべきものがある。敵意はありませんよ、という意味の、レストランの店員などが作る笑顔だ。妻は本気で笑っている、と思った。社会的笑顔ではない。

「鏡は?」

僕が聞くと、スマートフォンのinカメラを妻が渡してくれた。自分の顔を見てみると、前髪がぱっつんになっている。おかっぱの前髪が、僕の前髪である。

「大丈夫かな」

「大丈夫よ。まだ完成じゃないから」

そうかな。妻はまだ笑っていた。そして切り進め、僕の前髪は完成した。前髪以外はそのままである。

「もう邪魔じゃないでしょう?」

「そうだな」

inカメラで見ると、ちょっとおかしい気がしなくもないが、僕以外の人間は気にしないレベルである。これで完成だ。

こうやって、家で過ごす時間が増えると、色々な生活が変わる。

床屋の店員以外の身近な人に髪を切ってもらうことも絶えて久しかったが、切ってもらえば、それはそれで済む。また出社する前に、一回切ったら、それなりになるだろう。

それに。

オリジナリティがある髪型はいいものだ。僕はちょっと気にいったのである。

パンデミック下の社会

日本は今、新型コロナウイルス対策のため、外出制限が行われている。このようなパンデミック下の社会生活について、自分が気付いたことをまとめる。

社会主義的政策

パンデミックが起こると、疫病の蔓延を防ぐために外出制限や人との接触が制限され、通常の社会生活が困難になる。また、店を開けないなどの理由で、事業を中断する企業が出てくるので、経済活動への影響も大きい。津波地震などの災害が発生したときには、仮設住宅の提供など、社会主義的な対策が実施されるが、パンデミック下の社会でも、政策が社会主義的になるようである。

目的

国民の安全と生活の維持を目的に実施されていると考えられる。特徴としては、文化的な生活よりも、肉体的な生存を第一義としている点が挙げられる。これは疫病対策という目的の性格からして当然の事である。

政策

再分配政策

現金を一人十万円配布するという大胆な政策を政府は実施するようである。諸外国でも、住民の生活を支えたり、企業の倒産を防ぐためにお金を融通する政策が打たれているようである。これは「自由」と「安全」でいえば、「自由」よりも「安全」が重要な状況であるために、このような政策が要求されたのであると思う。

自由を重視する国アメリカでは、ロックダウンに反対するデモもあるようである。これは、人の自由を制限して安全を確保する政策への反対であり、安全よりも自由が重要な人々の主張であるが、大きな流れにはなっていない。

配給の実施

マスクを一世帯2枚配布するという対策が打たれるようである。これはマスクが不足し、なおかつマスクの供給がしばらく見込めないことによって実施されるわけである。一時的な配給制度であると言える。

家賃補助

住居を保証するため、家賃補助が実施されるとのことである。

社会の変化

接触社会

コロナウイルスは人と人との接触が契機となって感染するので、人の接触を減らすような生活を送ることになる。いわば、「非接触社会」とでもいうべき社会が営まれる。

現在、人と人との接触を減らすために、以下のような変化があった。

コロナ前 現在
事務職 リモートワーク
店舗内飲食 出前、持ち帰り
実店舗 通販
通常のレジ 客と店員の間の仕切りのあるレジ、セルフレ

店舗が営業できず、廃業に追い込まれる事業主が出てくる一方、Web会議システムのZOOMの利用者が急増するなど、逆に需要が増えている業種もある。

分散して暮らす

また、人が一か所に集まるということが減った。アメリカでは学校での銃発砲事件が2020年3月には無かったという。そもそも学校が開かれていないので、銃発砲事件もおきなかったのである。

個人の変化

家に籠り切りの生活が続くのでストレスがたまる人がいる。自分はそれほどでもないが、一日に一回は外に出たくなる。

筆者の個人的な経験

コロナが日本に入ってきてしばらくした頃、勤務している会社がテレワークに移行した。自分は社内SEだったので、リモートワークへの移行には障害がほとんどなかった。リモートワークのためのアプリケーションなどのインフラが整えば、それで移行できた。

通勤がない

リモートワークが始まって、すぐに感じたことは、通勤が無くなって楽だということである。今まで、会社の行き返りで毎日2時間は使っていた事と思う。この時間が要らなくなったので非常に楽である。この一事で、リモートワークはもう止められないなと思っている。

仕事机がないので購入

家にはちゃぶ台のようなテーブルしかなく、そこにデスクトップPCがでんと載っていた。たまに使う分にはそれで良かったのだが、一日7.5H働くと足がしびれて仕方がない。やむを得ないので、この機会に仕事用の机と椅子を購入した。注文から1週間ほどして机と椅子が揃い、早速組み立ててみたところ、大変快適になった。本当に快適である。ずっとここで働きたい、と思った。

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購入した机。床が散らかっているが、気にしないでいただきたい。
気分転換はできない

外食の機会がなくなり、当たり前のように食べていたあの店のカレーや、あの店の讃岐うどんが食べられなくなった。三食手作り + スーパーで買った総菜である。その辺は寂しい。そして、外を歩く機会は、当然ない。外出制限もあるし、第一、コロナが怖くて、外に出れなくなってしまった。

仕事中におやつ

仕事中に妻が果物の盛り合わせを作って出してくれる。お茶や温めた牛乳も出してくれる。なんという贅沢。仕事中におやつを食べる習慣がないので、断りたい気持ちもあるが、結局食べている。でも、すぐに歯磨きできないし、虫歯になりたくないので、やっぱり断りたい。

夜半に買い物や散歩

人がいない頃を見計らって買い物に行くので、家を出るのが22:30である。それから23:00まで買い物をして帰ってくる。外で散歩したいときは夜中に家を出て、人のいない住宅街をうろうろ歩いて帰ってくる。ドラキュラみたいな暮らしである。たまに窓の外を見て思う。こんなに晴れている日に、出掛けられないなんて、と。

動画、音楽サービスの有料会員になりたい

家にずっといるので、Spotifyで音楽を聴いたり、YouTubeを見たりする機会が増えた。BSもアンテナがあれば見れるはずだけど、家にはない。SpotifyYouTubeは有料会員になりたいし、BSはアンテナを取り付けて観られるようにしたいけど、これからお金がどうなるか分からないので、今契約する気にはなれない。

換気

部屋を時々換気している。もう4月も半ばを過ぎて、陽気が良くなってきた。網戸にすると涼しくて気持ちいい。僕は幸い、コロナに罹っていないので、こう思う事がある。

 電車通勤はなくなり、スーツを着る機会も無くなって、スーツは押し入れにしまってしまった。仕事はリモートで何の支障もない。網戸から入ってくる春の風は心地よい。仕事を始めてしばらくすると、妻がお茶と果物を運んでくる。ここは天国だろうか。いや、天国より、尚良いところだろう。天国は死なないと行けないが、私はまだ生きているのだから。

IT技術にできること

自分はIT技術者なので、IT技術にできる事を考えてみたい。現在の技術面での社会的要求と可能な対応をまとめてみる。

要求

  1. 人と人が接触しない形で社会生活を営めるようにしたい。
  2. コロナウイルスに罹らないようにしたい。

対応

1. 人と人との接触を減らす

対応としては、以下が考えられる。

  • 人ではなく、物を動かす
  • 人は会わずに、情報だけでやりとりする

具体的には以下である。

  • 通販、出前などの体制を強化
  • 人込みの発生を発見し、地図上で確認できるようにすることで、人込みを避けられるようにする。
  • 置き配の推進。配達員と受取人との接触を減らす。
  • ハンコを廃止するなど、IT化を促進することで出勤を減らす。
  • マイナンバーの活用を進め、市役所の窓口に行く機会を減らす。

その他、いくらでも対策は考えられるだろう。IT関連の開発にはそれなりに時間がかかるため、上記の方向での開発が進むとしても、結果が出るまでには半年~1年ぐらいかかると思われる。

2. コロナウイルスに罹らないようにする

ワクチンや対症薬の開発を直接行うことできないが、開発を支援することはできる。

人が平等でありかつ不平等であるゆえに助け合うのである。

同じ人間であると考えるから助けあう事ができるのである。

男女だから、大人と子供だから、お金持ちと貧乏人だから、色々な理由で人間を隔てていては、助け合うことはできないのである。

しかしまた、人が置かれている立場、境遇や、できる仕事、能力、年齢、国籍、話す言語などがそれぞれ違うから、助け合うことができるのである。得意を生かし、人を助けることがあるのである。

だから、まずは、人を隔てる観念上の仕切りを無くし、また同時に、相手の境遇や心情に同情するのでなければ、協力ということは生まれないし、できないのである。

 そう考えると、助け合うというのは一見、不思議なことのようにも考えられる。

「人がそれぞれ違う」事と「しかしまた同じである」事を同時に認めなければ、助け合うということはできないからである。

しかしその実、助け合うというのは優しいことである。

親切を受け取り、自分にできることをしたら、それで助け合いになるのである。

何もできないということはない。何かできる。

それでも何もできないという人は、受け取ることである。

受け取ることもまた、協力の一面であり、大切なことなのである。

『吾輩は猫である』の思い出

初めて読んだのは、高校生だったと思う。面白くて、最後まで読み通してしまった。読んでいるとき面白かったし、当時、本を読むのを途中で止めるということをあまりしなかったので読み通したが、人によっては途中で読むのを止める人もいるようである。それを知ったときは、「こんな面白い本を途中でやめるのか」と思って、軽く驚いた。そのぐらい、「吾輩は猫である」は面白い。

西脇順三郎が、確か、「吾輩は猫である」を称して、随筆と呼んでいたと思う。小説という感じは確かにしない。一応、フィクションだが、内容としては随筆やエッセイに近い趣である。それで、どこからでも読める。この性質は、夏目漱石自身も自覚的だったようである。自分で確か、「金太郎飴」と言っていた気がする。ここにはすべて僕のあいまいな記憶で書いているので、調べたら違うかもしれない。

思えば、僕は小説よりもエッセイが好きであった。日本語で言えば随筆である。大学時代、夢中になって読んだのは内田百閒であった。小説も書いているが、どちらかというと、随筆で知られた作家である。

そんなわけで、漱石は「三四郎」も読んだし、「坊っちゃん」も読んだけど、ちゃんと理解できた気が全然しない。そもそも、漱石の小説は面白いのだろうか? 小説の骨格としては、鴎外の方がしっかりしていて、まだ理解が追い付くところがある。

人間には、思考の型とでもいうべきものがあると思う。大体こう考える、という流れが、良きにつけ悪しきにつけ、できてくる。

政治の意見でも、右派は大体こう考えるとか、左派はこうというまとまりがある。個々の問題に対して、人の意見が単純に二つの傾向にまとまるはずはない。問題A,B,Cに対して、右派は肯定、肯定、否定、左派は否定、肯定、否定となる、そんな単純に分かれるはずはないのだが、でも、なんとなくそういうまとまりがないこともないという風に見える。これは思考の型に従って問題A,B,Cを処理すると、こういう結論に至るという道筋がある程度あるためかもしれない。

小説の理解という点でも、鴎外の方がやや自分の頭の型に近いのかもしれない。僕は荷風も好きであって、こちらの作家も漢文的な世界観を背景として持っている。鴎外はいうまでもないことである。

夏目先生は、そうではない。江戸戯作の流れを引くという。江戸の戯作を自分ももう少し読めば、話が分かるのかもしれぬ。

話を「吾輩は猫である」に戻そう。

この話を読んだとき、いや、漱石の文章に触れたときに感じたことなのだが、ともかく表現が豊かである。鴎外がある小説で漱石に擬した登場人物の作品を評して言った、「曖昧な考えを曖昧なまま表現し、それで人が得心する」という評価が自分にはしっくりくる。明確になる前の、感じていることや、思っていること、あるいは人の姿、様子などの神羅万象を、キケロばりの冗長な文体でめぐりめぐりしながら書き、そして充分に描き切る。そこに、漱石の文章力の素晴らしさがあると思う。

漱石の思想が全面に出てくる作品にはあまり魅力を感じない。草枕も良いという人はいるが、一体文学者の思想というものは、表現としての思想であって、本当の思想ということとは違うと思う。あまり人を導く強さを感じない。思想が人を導くというより、どちらかというと、人の思想を表現したという感じである。思想に価値があるのではなく、表現したことに価値がある。

人を考えさせる。人にものの見方を示す。そういう面白さが漱石の文章にはある。

何かそういう、モノの見方の角度を人に教えるというのも、小説や文学の面白さかもしれない。

吾輩は猫である」には、心地よい読後感というものがない。どちらかというと、悪い読後感が残る。文明批評の毒が効きすぎて、読者まで、毒に当たるのかもしれない。それがあるいは、途中で読むのを止める読者がいる理由なのかもしれない。しかし、漱石の文章の面白さは一品であり、それはこの作品で良く分かる。だから、自分は今でも「吾輩は猫である」が好きである。