野狐消暇録

所感を記す

パンデミック下の社会

日本は今、新型コロナウイルス対策のため、外出制限が行われている。このようなパンデミック下の社会生活について、自分が気付いたことをまとめる。

社会主義的政策

パンデミックが起こると、疫病の蔓延を防ぐために外出制限や人との接触が制限され、通常の社会生活が困難になる。また、店を開けないなどの理由で、事業を中断する企業が出てくるので、経済活動への影響も大きい。津波地震などの災害が発生したときには、仮設住宅の提供など、社会主義的な対策が実施されるが、パンデミック下の社会でも、政策が社会主義的になるようである。

目的

国民の安全と生活の維持を目的に実施されていると考えられる。特徴としては、文化的な生活よりも、肉体的な生存を第一義としている点が挙げられる。これは疫病対策という目的の性格からして当然の事である。

政策

再分配政策

現金を一人十万円配布するという大胆な政策を政府は実施するようである。諸外国でも、住民の生活を支えたり、企業の倒産を防ぐためにお金を融通する政策が打たれているようである。これは「自由」と「安全」でいえば、「自由」よりも「安全」が重要な状況であるために、このような政策が要求されたのであると思う。

自由を重視する国アメリカでは、ロックダウンに反対するデモもあるようである。これは、人の自由を制限して安全を確保する政策への反対であり、安全よりも自由が重要な人々の主張であるが、大きな流れにはなっていない。

配給の実施

マスクを一世帯2枚配布するという対策が打たれるようである。これはマスクが不足し、なおかつマスクの供給がしばらく見込めないことによって実施されるわけである。一時的な配給制度であると言える。

家賃補助

住居を保証するため、家賃補助が実施されるとのことである。

社会の変化

接触社会

コロナウイルスは人と人との接触が契機となって感染するので、人の接触を減らすような生活を送ることになる。いわば、「非接触社会」とでもいうべき社会が営まれる。

現在、人と人との接触を減らすために、以下のような変化があった。

コロナ前 現在
事務職 リモートワーク
店舗内飲食 出前、持ち帰り
実店舗 通販
通常のレジ 客と店員の間の仕切りのあるレジ、セルフレ

店舗が営業できず、廃業に追い込まれる事業主が出てくる一方、Web会議システムのZOOMの利用者が急増するなど、逆に需要が増えている業種もある。

分散して暮らす

また、人が一か所に集まるということが減った。アメリカでは学校での銃発砲事件が2020年3月には無かったという。そもそも学校が開かれていないので、銃発砲事件もおきなかったのである。

個人の変化

家に籠り切りの生活が続くのでストレスがたまる人がいる。自分はそれほどでもないが、一日に一回は外に出たくなる。

筆者の個人的な経験

コロナが日本に入ってきてしばらくした頃、勤務している会社がテレワークに移行した。自分は社内SEだったので、リモートワークへの移行には障害がほとんどなかった。リモートワークのためのアプリケーションなどのインフラが整えば、それで移行できた。

通勤がない

リモートワークが始まって、すぐに感じたことは、通勤が無くなって楽だということである。今まで、会社の行き返りで毎日2時間は使っていた事と思う。この時間が要らなくなったので非常に楽である。この一事で、リモートワークはもう止められないなと思っている。

仕事机がないので購入

家にはちゃぶ台のようなテーブルしかなく、そこにデスクトップPCがでんと載っていた。たまに使う分にはそれで良かったのだが、一日7.5H働くと足がしびれて仕方がない。やむを得ないので、この機会に仕事用の机と椅子を購入した。注文から1週間ほどして机と椅子が揃い、早速組み立ててみたところ、大変快適になった。本当に快適である。ずっとここで働きたい、と思った。

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購入した机。床が散らかっているが、気にしないでいただきたい。
気分転換はできない

外食の機会がなくなり、当たり前のように食べていたあの店のカレーや、あの店の讃岐うどんが食べられなくなった。三食手作り + スーパーで買った総菜である。その辺は寂しい。そして、外を歩く機会は、当然ない。外出制限もあるし、第一、コロナが怖くて、外に出れなくなってしまった。

仕事中におやつ

仕事中に妻が果物の盛り合わせを作って出してくれる。お茶や温めた牛乳も出してくれる。なんという贅沢。仕事中におやつを食べる習慣がないので、断りたい気持ちもあるが、結局食べている。でも、すぐに歯磨きできないし、虫歯になりたくないので、やっぱり断りたい。

夜半に買い物や散歩

人がいない頃を見計らって買い物に行くので、家を出るのが22:30である。それから23:00まで買い物をして帰ってくる。外で散歩したいときは夜中に家を出て、人のいない住宅街をうろうろ歩いて帰ってくる。ドラキュラみたいな暮らしである。たまに窓の外を見て思う。こんなに晴れている日に、出掛けられないなんて、と。

動画、音楽サービスの有料会員になりたい

家にずっといるので、Spotifyで音楽を聴いたり、YouTubeを見たりする機会が増えた。BSもアンテナがあれば見れるはずだけど、家にはない。SpotifyYouTubeは有料会員になりたいし、BSはアンテナを取り付けて観られるようにしたいけど、これからお金がどうなるか分からないので、今契約する気にはなれない。

換気

部屋を時々換気している。もう4月も半ばを過ぎて、陽気が良くなってきた。網戸にすると涼しくて気持ちいい。僕は幸い、コロナに罹っていないので、こう思う事がある。

 電車通勤はなくなり、スーツを着る機会も無くなって、スーツは押し入れにしまってしまった。仕事はリモートで何の支障もない。網戸から入ってくる春の風は心地よい。仕事を始めてしばらくすると、妻がお茶と果物を運んでくる。ここは天国だろうか。いや、天国より、尚良いところだろう。天国は死なないと行けないが、私はまだ生きているのだから。

IT技術にできること

自分はIT技術者なので、IT技術にできる事を考えてみたい。現在の技術面での社会的要求と可能な対応をまとめてみる。

要求

  1. 人と人が接触しない形で社会生活を営めるようにしたい。
  2. コロナウイルスに罹らないようにしたい。

対応

1. 人と人との接触を減らす

対応としては、以下が考えられる。

  • 人ではなく、物を動かす
  • 人は会わずに、情報だけでやりとりする

具体的には以下である。

  • 通販、出前などの体制を強化
  • 人込みの発生を発見し、地図上で確認できるようにすることで、人込みを避けられるようにする。
  • 置き配の推進。配達員と受取人との接触を減らす。
  • ハンコを廃止するなど、IT化を促進することで出勤を減らす。
  • マイナンバーの活用を進め、市役所の窓口に行く機会を減らす。

その他、いくらでも対策は考えられるだろう。IT関連の開発にはそれなりに時間がかかるため、上記の方向での開発が進むとしても、結果が出るまでには半年~1年ぐらいかかると思われる。

2. コロナウイルスに罹らないようにする

ワクチンや対症薬の開発を直接行うことできないが、開発を支援することはできる。

人が平等でありかつ不平等であるゆえに助け合うのである。

同じ人間であると考えるから助けあう事ができるのである。

男女だから、大人と子供だから、お金持ちと貧乏人だから、色々な理由で人間を隔てていては、助け合うことはできないのである。

しかしまた、人が置かれている立場、境遇や、できる仕事、能力、年齢、国籍、話す言語などがそれぞれ違うから、助け合うことができるのである。得意を生かし、人を助けることがあるのである。

だから、まずは、人を隔てる観念上の仕切りを無くし、また同時に、相手の境遇や心情に同情するのでなければ、協力ということは生まれないし、できないのである。

 そう考えると、助け合うというのは一見、不思議なことのようにも考えられる。

「人がそれぞれ違う」事と「しかしまた同じである」事を同時に認めなければ、助け合うということはできないからである。

しかしその実、助け合うというのは優しいことである。

親切を受け取り、自分にできることをしたら、それで助け合いになるのである。

何もできないということはない。何かできる。

それでも何もできないという人は、受け取ることである。

受け取ることもまた、協力の一面であり、大切なことなのである。

『吾輩は猫である』の思い出

初めて読んだのは、高校生だったと思う。面白くて、最後まで読み通してしまった。読んでいるとき面白かったし、当時、本を読むのを途中で止めるということをあまりしなかったので読み通したが、人によっては途中で読むのを止める人もいるようである。それを知ったときは、「こんな面白い本を途中でやめるのか」と思って、軽く驚いた。そのぐらい、「吾輩は猫である」は面白い。

西脇順三郎が、確か、「吾輩は猫である」を称して、随筆と呼んでいたと思う。小説という感じは確かにしない。一応、フィクションだが、内容としては随筆やエッセイに近い趣である。それで、どこからでも読める。この性質は、夏目漱石自身も自覚的だったようである。自分で確か、「金太郎飴」と言っていた気がする。ここにはすべて僕のあいまいな記憶で書いているので、調べたら違うかもしれない。

思えば、僕は小説よりもエッセイが好きであった。日本語で言えば随筆である。大学時代、夢中になって読んだのは内田百閒であった。小説も書いているが、どちらかというと、随筆で知られた作家である。

そんなわけで、漱石は「三四郎」も読んだし、「坊っちゃん」も読んだけど、ちゃんと理解できた気が全然しない。そもそも、漱石の小説は面白いのだろうか? 小説の骨格としては、鴎外の方がしっかりしていて、まだ理解が追い付くところがある。

人間には、思考の型とでもいうべきものがあると思う。大体こう考える、という流れが、良きにつけ悪しきにつけ、できてくる。

政治の意見でも、右派は大体こう考えるとか、左派はこうというまとまりがある。個々の問題に対して、人の意見が単純に二つの傾向にまとまるはずはない。問題A,B,Cに対して、右派は肯定、肯定、否定、左派は否定、肯定、否定となる、そんな単純に分かれるはずはないのだが、でも、なんとなくそういうまとまりがないこともないという風に見える。これは思考の型に従って問題A,B,Cを処理すると、こういう結論に至るという道筋がある程度あるためかもしれない。

小説の理解という点でも、鴎外の方がやや自分の頭の型に近いのかもしれない。僕は荷風も好きであって、こちらの作家も漢文的な世界観を背景として持っている。鴎外はいうまでもないことである。

夏目先生は、そうではない。江戸戯作の流れを引くという。江戸の戯作を自分ももう少し読めば、話が分かるのかもしれぬ。

話を「吾輩は猫である」に戻そう。

この話を読んだとき、いや、漱石の文章に触れたときに感じたことなのだが、ともかく表現が豊かである。鴎外がある小説で漱石に擬した登場人物の作品を評して言った、「曖昧な考えを曖昧なまま表現し、それで人が得心する」という評価が自分にはしっくりくる。明確になる前の、感じていることや、思っていること、あるいは人の姿、様子などの神羅万象を、キケロばりの冗長な文体でめぐりめぐりしながら書き、そして充分に描き切る。そこに、漱石の文章力の素晴らしさがあると思う。

漱石の思想が全面に出てくる作品にはあまり魅力を感じない。草枕も良いという人はいるが、一体文学者の思想というものは、表現としての思想であって、本当の思想ということとは違うと思う。あまり人を導く強さを感じない。思想が人を導くというより、どちらかというと、人の思想を表現したという感じである。思想に価値があるのではなく、表現したことに価値がある。

人を考えさせる。人にものの見方を示す。そういう面白さが漱石の文章にはある。

何かそういう、モノの見方の角度を人に教えるというのも、小説や文学の面白さかもしれない。

吾輩は猫である」には、心地よい読後感というものがない。どちらかというと、悪い読後感が残る。文明批評の毒が効きすぎて、読者まで、毒に当たるのかもしれない。それがあるいは、途中で読むのを止める読者がいる理由なのかもしれない。しかし、漱石の文章の面白さは一品であり、それはこの作品で良く分かる。だから、自分は今でも「吾輩は猫である」が好きである。

他人のように自分を導く

他人を見る時のように、自分に思いやりを持つこと。

他人のごまかしを見破るように、自分のごまかしを見破ること。

もし、他人が自分と同じ境遇にいたなら、どうアドバイスするだろうか?

思いやりを持つこと、本質的に重要な点を突くこと。

それがアドバイスの基本ではないか?

自分で自分を導くとき、無理をさせないこと。そして、本人の希望を尊重すること。

自分を許すこと。どこまでも、自分に思いやりを持つこと。

日本大学文理学部茶道研究会の2020年初釜

人が多かった。廊下まで人が溢れていた。緋色の絨毯が敷かれた待合も、一席入った後は入れなかった。諸先輩方とゆっくり話すには、やや混んでいたので、早々に帰ることにしたが、今年は例年と違って、K君に会えたのが嬉しかった。K君は、もう何十年かぶりにお茶会に来たという。僕は毎年出席しているので、年ごとに少しづつ変わってきた様子を知っているけど、K君からしたら、卒業して以来なので、変化を感じたらしい。

「お道具も増えたよ」

僕はK君に教えた。実際、数茶碗は僕の卒業後に購入したもので、ちょっと素敵な柄であった。前回の櫻門茶会で一緒だったT君もいくらか遅れてやってきて、三人で旧交を温めた。

大勢の人と言ったが、これが受験会場なら若い人ばかりだし、会社なら男性中心で、おじさんが多かったりするが、茶道研究会の初釜には、若い学生から、お年を召した先生までいて、男女比もおおよそ半々である。それが自分にはなんとなく嬉しい。社会の成員が満遍なく、みんな参加している気がするのである。

お歳を召したと言えば、K先生はもうだいぶお歳だが、弱ってきたとのお話で、心配であった。

お茶会の席で口にするのは失礼にあたると思うけど、OBの図々しさでちょっと言ったことがある。それは畳が張り替えたい頃合いだということである。あんなにすり切れた畳でお茶の稽古をしているのか。お茶室を出た、サークル棟の廊下でもちょっと話したけど、OBでお金を出し合えば、畳の張り替えぐらいはできると思う。あと、あの破れ放題の障子も張り替えたいものだ。I先輩曰く、一度張り替えを試みたが、普通の障子と仕組みが違うそうで、断念したという。畳も障子も大学の備品だそうで、事務に古くなったから張り替えて欲しい旨は伝えたそうだが、まだ張り替えてくれないのだそうである。備品というのはありがたいが、気軽に新調できないのが歯がゆい。

さて、お茶会が終わった後、久しぶりに会ったT君とK君と連れ立って、どこかで食事をすることにした。日本大学文理学部の構内をぐるっと散歩してから、明大前まで散策したあと、明大前から電車に乗って新宿に行き、新宿西口の居酒屋に入った。T君がお酒好きなので、お店の選定はT君に任せた。

お店に入って、お酒を頂いて談笑しているとき、ふと妻の事が気になり、スマートフォンを取り出して見てみた。すると、電話が20回ぐらいかかってきている。wechatも届いていて、怒っているらしい。二人にそう告げると、「早く帰った方が良い」という話になった。それで先に居酒屋を出て、帰ることにした。

最後はちょっと慌ただしくなってしまったが、楽しい日になったと思う。妻には以下の写真を送ったら、誤解が解けたようで、怒りを鎮めることができた。

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T君、K君と旧交を温める。

 

飛躍

人は自分の足で立ち、自分の足で歩く。それはそうなのだが。

飛躍することがある。

それは誰かに愛されたときである。
自分とは違うアスペクト(断面)で世界を見て生きている人がいる。
その人が自分を愛する。
すると、自分に欠けていたものに気付かされる。
そういう形で、息を吹き返す。

それは新しい感情であり、新しい地平である。

眠っていた私が起きる。
知らなかった世界を知る。
新しい地平に立っていることを知る。

それが愛されることである。
新たな世界に目覚めることである。

そして人はもう一度生きる。

それが飛躍することである。