野狐消暇録

所感を記す

岩本素白「雨の宿」を解釈しつつ読む。

岩本素白の随筆を読み返している。すでに著作権の期間が切れているらしく、青空文庫で読める。文章は漢字仮名交じりの、少し昔の文章である。

ひどいというほどでもないが、国文学の先生らしく、一文がやや長い。これが読みづらく、意味を取りづらいので、自分で句点を補いながら読んでみた。文章の意味が取りづらいところは、自分で勝手に文を補ってみた。これは私がこうだろうと思って補ったものなので、正しいかどうかは分からない。その点をご承知おき願う。

太字の部分が、自分の加筆修正が入った部分である。勝手に句点を挿入した部分にはスラッシュ「/」を入れてある。修正前の本文は青空文庫で読める。

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雨の宿

 久し振りで京都の秋を観ようと、十月十五日の朝東京駅を発つ時、偶然山内義雄さんに会った。/

山内義雄さんから、お宿はと聞かれて、実は志す家はあるが通知もしてないことをいうと、それでは万一の場合にと、名刺に書き添えた紹介を下すった。/それは鴨川に近い三本木という、かねて私もひそかに見当をつけたことのある静かな佳い場所であった。

然し実際私の落ちついたのは、(紹介して頂いた三本木ではなく、)中京も淋しい位静かな町筋の、(中略)まことに古風な小さな宿である。

(その宿は、)暗く奥深い呉服屋や、古い扇屋、袋物みせ、さては何を商う家とも、よそ土地の者には一寸分りかねるような家々に挟まれてあった。/

 以前この土地に親類のあった私は、(泊まりには親類を頼れば良かったことから、)この辺りの宿屋に就いてはまるで知識をもたない。/(しかし敢えて述べれば、)此の家は他の多くの旅館の如く、すぐ賑かな大通りに面した入口に、大勢並んで靴の紐を結べるような造り(にはなっていない。)(それどころか、)門をはいった突き当りが薄暗い勝手口で、横手の玄関に小さい古びた衝立ついたてを据えたところなど、土地馴れない眼には漢方医者の家を客商売に造り替えたような感じを受ける。

あとで聞けば殆どお馴染なじみさんばかりで、ふりの御客は稀だという。

なるほど、入り口で自動車の中から首を出した私に、少し渋った風でもあったが、最初心ざして行った家が混こんで居て、そこから指さされて来たことをいうと、ともかくも通されたのが、ささやかな中庭を見下ろす奥の二階(であった。)/

部屋は折れ曲った廊下のはずれで、全く他の部屋と縁の切れて居るのをよいと思った。/

(しかし)それよりも良かったのは、其の狭い中庭の一方を仕切る土蔵の白壁を背景にして、些か振りを作ってある松の緑が、折からの時雨に美しい色を見せ、ほかには何の木も無いのが却ってよかった(ことである。)

殊に其処は小さな二た間つづきで、その両方のどちらの窓に倚よっても、中庭ごしの白壁のほかに、北から西へ掛けて屋根の上、物干しのはずれ、近所の家々の蔵が五つ六つもずらりと白い壁を見せて居る。

蔵というものは、場合によっては陰気にさえ見えるほど静かな感じを与えるものである。/東京あたりでは此の頃それ(、つまり蔵々の姿)が段々見られなくなってしまった。久しい以前、始めて川越の町を見に行った折、黒磨きの土蔵造りの店がずらりと並んで居る町筋を通って、眼を見はったことがあるが、考えて見れば川越は江戸よりも古い文化を持った町であった。

まして此処は旧い都、ことに此の辺りは落ち着いた家の多い町である。こういう背景を持った此の部屋の、ひっそりとした気配に、すっかり京都へ来たような気になって、些かいぶせき宿ではあるが、ともかくここを当分の塒ねぐらにしてと思い定めたことである。

京都の駅に着いた時、もう降り始めていた小雨が、暗くなると本降りになって夜を通して蕭条しょうじょうと降り注そそぐ。今まで此の土地へ来るたび、いつも天気でついぞ雨らしい雨に会ったことのない私は、すっかり雨というものを忘れて来たが、聞けば此の夏はまるで降らなかったという。これは悪くすると、滞在中ずっと降り通すかも知れない、然しその時には又その時のことと肚はらをきめると、雨の音は落ち着かぬ旅の心を和なごやかに静めてくれる。

悪い癖で宿屋の褞袍どてらを着ることの嫌いな私は、ほんの七八日の旅なのに、わざわざ鞄に入れて来た着物と着換え(た。)/早目に床を延べてくれた奥の小間の唐紙からかみを締め切り、入り口の方の部屋のまん中に小机を据えて端坐する(そうしてみると、)少し強くなった雨の音が、明日の行程の悩みを想わせるよりも、ひどく静かな愉しいものに聞えて来る。

一二冊は携えて来た本もあるが、さてそれに読み入るだけの余裕はない。/(そんな、)落ち着いたようで居て、何か物に憧れるような焦立いらだたしさを覚えるのも可笑おかしい。

 近頃少し眠られぬ癖がつきかけて、これで旅に出てはと危ぶんで居たが、それにしても其の夜は割によく眠れたことである。

暁に眼ざめてそれから程なく聞いた鐘の音は、ふだん東京で聞くものよりはやや澄んで高い音であった。

目を瞑つぶったまま近くの寺々を思い浮べて見たが、さてどの辺とも分らない。やがて彼方此方、音色ねいろの違った、然し同じくやや高い鐘の音が、入交って静かに秋雨の中に響いて来る。じっと目を閉じて居たが、雨は如何にも落ちついて降り注いで居るようである。

若い頃、利根川の畔ほとり鹿島の宿で、土用明けのざんざ降りを食って、三日も無言の行を続けたことを思いだしたが、あの黒ずんだ、色彩の無い、常陸の国の川沿いの丘の宿に比べると、此処は雨もまた優しく懐かしい。

といって、今度の旅は単に京都の秋の景色に浸ひたってだけ居るわけにはいかない。少しは調べたいもの、見たい所もあって、五六日は随分歩くつもりで、足慣らしもして来たのである。/

(しかし)この雨では愛宕あたご、乙訓おとくに、久世くぜ、綴喜つづきと遠っ走りは出来そうにない。然し雨なら雨で、近まの寺々の苔の色を見て歩いてもよい京都である。

幸い博物館には、思いがけず海北友松かいほうゆうしょうの特別展覧会が開かれても居る。祇園の石段を上って、雨に煙る高台寺下の静かな通りを清水きよみずへ抜ける道筋も悪くはない。そんなことを寝たまま考えて居るうちに、いつか下の方でも起き出した気配で、滑なめらかな優しい此の土地特有の女達の言葉が聞えて来た。

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長い文章には時として、人を酔わせるような魅力があることは、文学に関心がある人なら誰でも知っていることだろう。しかし、文章が長いと、意味が取りにくくなることもまた確かである。こうして分解しながら読んでみると、意味が良く分かる。もっとも、随筆だから、大して中身があるわけではなく、文章の魅力を取り除くと、この文章に何の意味があるのか分からなくなる気もする。

さて、こうして手を加えつつ読み進めて気が付いたことがある。それは、長い文章、凝った文章が前半から中盤にかけてあることである。終盤は、それほど解釈に悩むことがなく、そのままストレートに読めた。これは作者の興が乗っているのが最初の部分で、そのリズミカルな国文学の文章が、徐々に自然な、日常的な文章に近づいていくためではないかと思う。

ともあれ、読みにくいことを除けば、名随筆と呼ばれるのも分かる。それに、客観的な評価はともかく、僕はこの随筆家の文章を好んでいるので、これからも折に触れて読んでいきたいと思う。