野狐消暇録

所感を記す

「ドリトル先生アフリカ行き」を原書で読んでみている。

きっかけは英語の勉強である。今、英語を学ぶために、日本語の訳書がしっかり出ていて、英語の原書も手に入る本を探してきて、読むようにしている。プロジェクトマネジメントの本もそうやって二つの本を交互に参照しながら読んでいるのだが、小説も読んでみようと思い、ドリトル先生シリーズの英語版と日本語版をKindleで買った。ドリトル先生シリーズは井伏鱒二が訳していて、日本語版を子供の頃読んで面白かったが、今読んでもやっぱり面白い。それに、読んでいて、子供の頃にははっきり分からなかったことに気づいたりもした。それは、この本が社会批評を含んでいるという点である。夏目漱石の小説『我輩は猫である』では猫に人間社会を批評させていたが、このドリトル先生においても、動物たちに言わせることでその時代の世界を批判しているのである。

風刺

ドリトル先生は慢性的に金欠である。それは一つには、ドリトル先生がお金を儲けるために生きるようなタイプの人間ではないことに起因している。儲かるかどうかで行動を決めているわけではないので、動物たちの尊敬を集めることはできても、お金を集めることはできない、また積極的にはしようとしないのである。

動物たちはそんな先生に変わってお金の心配をする。いわば、動物たちの病を治す代わりに、動物たちが生活の心配をしてくれるというような形である。

病を治してもらった猿たちが、先生にお礼をしようと相談をする。そのとき、最初は食べ物を考えるのだが、最後には珍しい動物を贈ることに決める。その理由はというと、「人間の世界というのは、お金がないと一日も暮らせないから、この動物を見世物にして、お金を稼いでくれ」というわけである。

このエピソードが語られる時、猿は「お金がないと暮らせないとは! 自分はそんなところでは暮らしたくないな」という風に語るので、そこが面白いのだが、これはやはり批評であると思う。猿の世界より人間の社会の方が劣っているという次第である。

こういう類の批評は作品中に散りばめられていて、動物界では偉人扱いのドリトル先生、人間界では変人のお医者さんということで、話の構造そのものが面白い。これは話としてもよくできていると思うが、そこには一脈の批判精神というものも流れていて、最近読んでそれに気づいたという話である。

井伏鱒二の訳

英語で原書を読んでいくので、井伏鱒二の翻訳がどういうものか、自分で検証しながら読むような形になる。もちろん、日本語訳を傍らに置くのは、自分で意味が取れなかったとき、訳書に意味を教えてもらうためである。しかし、同時に、「なるほど、こう訳したのか」と訳し方を噛みしめることにもなるわけである。

それで感じたのが「おっしゃった」とかいうような丁寧な言葉を井伏鱒二が補っているということである。原書には、そういう丁寧語に当たる言葉が載っているわけではないと思うのだが、井伏はそういう書き方をしている。そのために、日本語訳が上品というか、気品のようなものが少し増しているかもしれないと思う。これは優雅という感じとはちょっと違って、丁寧な、敬語が使える人の日本語を聞いているような具合である。

僕は井伏鱒二の作品を好きで読んでいたことがあって、『山椒魚』や『寒山拾得』のような作品のファンであった。井伏鱒二は日本語を大切にする、詩人肌の小説家である。そういう井伏の特徴が、訳にも出ていそうな気がした。

これから

ぜひ最後まで読んでみたいが、果たしてどうなることか。

日本語の本と英語の本を並べて読むと、ただ辞書を引きながら英文を読むより、ずっと楽なので、英語を学んでいる人はやってみると、人によっては良いかもしれない。ただ、一冊買えば済むはずのところを二冊同じ内容の本を買うわけなので、ちょっと勇気がいるのは間違いないのである。私はお金を出せないので、判断は読者諸氏に委ねるのである。