野狐消暇録

所感を記す

「伊豆の踊子」を読んだ。

有名な小説なので、読もうとして読みかけた事は確かあったと思うのだが、何も惹かれるところがなく、途中で読むのを止めたか、飛ばし読みして終わりにしてしまっていた。今回、眠れない夜の友として、Kindle岩波文庫の『伊豆の踊子』を買い、読んでみた。

まず、文章が素直でひっかかりがなく読める、教科書のような文章である。流麗であるとも言えそうである。固有名詞が多いので、「取材旅行に行って書いたのだろうか」と読んでいる最中に思った。しかし事実は、著者自身の後書きによれば、実際の経験に基づいているとの事である。

良いと思ったのは、旅芸人への周囲の人間の差別が良く分かることと、差別のない主人公の振る舞いに、旅芸人達が親しみと好感を覚え、次第に親しくなる経緯が良く分かる事である。こういうことは誰しも経験があるのではないか。自分に隔意なく接する人には好感を抱くということである。

しかし、いまいち理解できなかった点もある。それは物語の後半で主人公が寄宿舎に帰る事になり、旅芸人と別れた後、船の中で涙を流す場面である。旅芸人との別れが寂しいというのは頭では分かるが、涙を流すような気持ちになるというのが、いまいち分からなかった。主人公は20歳の高校生と書かれているが、これは今日でいうところの、東大の教養学部に在籍している学生らしい。旅芸人になりたいわけではないだろうし、何か自分とは別の暮らしに対する郷愁のような感情なのか。或いは、自分に恋情を抱いた小さな女の子を残して去る事の悲しさなのだろうか?

なにかこの、複雑な味わいというか、ここの主人公の涙が分からないというのは、作品の鑑賞上、最も重要な箇所を理解できていない、という事になりはしないだろうか? 自分の鑑賞力の不足が恨めしいのである。

それから、著者自身が後書きで書いているのだが、川端康成は「伊豆の踊子」を一旦書き上げた後、「この作品には景観描写が足りないから、景観描写を追記して書き改めよう」と考えた事があったそうである。

実は自分も読んでいて、わりとばっさり場面を飛ばすなぁ、と感じたところはあったのであるが、ただ、それを「景観描写の不足」とは感じなかった。むしろ、これだけ省略したのに、ちゃんと土地の風俗や景色が見えるのは流石だなぁ、と感心していた。なので、作家さん的には不満があったのかもしれないし、「景観描写追加版」の「伊豆の踊子」を読みたいかと聞かれると読みたい。でも、追加の景観描写が無くても、「伊豆の踊子」は確かに完成していると自分は思う。この版の「伊豆の踊子」で充分均整のとれた作品であるように感じる。

あと、これはツッコミに類する話かもしれないが、主人公に恋している中学生ぐらいの年の踊子に「活動に連れていって」と言われ、主人公は踊子を映画に連れていこうとするのであるが、一緒にいた他の若い女の芸人二人が行けないので、踊子一人を連れていこうとする。すると、リーダー格のおばさんの芸人が「一人で行くのはダメだ」と言って踊子を止める。主人公は「なぜダメなんだろう」と不思議な気持ちになるのであるが、もちろん、若い男女を二人きりにして、手を出されたら困るからというのが理由だろうと思う。考えたら、この辺りも、物語の鑑賞上、ちゃんと押さえるべき点なのかもしれない。著者はわざわざその場面のちょっと前に、踊子の肩を軽く叩いた鳥屋の男に「ちょっと気を付けて。まだ生娘なんだからね」とおばさんが文句を言うシーンを挿入しているからである。つまり、読者には理由が分かるように書いておき、主人公にはそこで、不思議な気持ちになってもらったのである。主人公は、無邪気な子供の心に釣り込まれて、大人の考えから離れ、純粋な気持ちになっているのだ。そういう表現なのだと思う。

こうして書きながら振り返ると、主人公は題名通り、「伊豆の踊子」であるのかもしれない。その踊子は旅先で会ったために、理想化されているのだが、理想を描く事ができたので、芸術としては充分なのだと思う。