野狐消暇録

所感を記す

僕を助けてくれた思想

自分は青年の頃から思想に関心があった。

始めに関心を持ったのは仏教思想であった。中でも、特に禅である。

しかし、自分は社会に出てから、仏教に救われたと感じた事がまだほとんどない。

あるにはあるけれども、それがはっきり仏教かどうか、確信がない。

自分が行き詰まり、行き場を無くした時に、仏教的な心情が沸き上がってきて、今までのこだわりを捨て去る気になり、それで前に進めるようになる、そういう経験は何度かしている。しかし、同じ経験を誰でもしていそうだし、自分がそういう機会に仏教的なもの、禅的なものを感じているだけかもしれない。仏教がなければ、こだわりを捨てる事ができないかと聞かれると、無くてもできるだろうと思う。

さて、仏教よりも、もっとはっきり自分が救われたと感じるのは論語である。儒教に救われたと言わないのは、自分が主に読んだのは論語であり、しかも、論語の前半だからである。要は全部は読まなかったのであるが、それでも、自分には大きな意味があった。論語の教えは、自分が自立するのに役立つと思う。

子供の頃は、両親や周囲の大人の愛情で子供は育つが、長じるに従い、自分である程度生きれるようになる必要がある。論語に、「吾十有五而志于学」(私は十五歳で学問に志した)とあるが、実際15歳ぐらいになると、もう自分で歩き始めねばならない。そういう機会に、論語は一番適していると思う。社会に出ると、悪い人間もいれば、親切な人もいる。悪友に近い友達もいるだろうし、本当に仲のいい、親切な友人もできるだろう。いずれにしろ、万事自分次第ということになり、何かしらの寄る辺がないと、堕落して道を失う事になりかねない。何も考えずにぼんやり働いていれば、それだけで時間が過ぎてしまう。そういう時、論語は役に立つ。論語は、母の愛情の代わりになる、と言ってもいいと思う。或いは、結婚する前に得る妻の支えのようなもの、とも云えるかもしれない。

  • 志すという発想

まず、何か目標を持つ、志を持つという事が論語にはある。しかし、この目標というのは論語に於いては限定されている。スポーツ選手になる、とか、歌手になる、という目標は論語に含まれない。君子になる、という事、学問を学んで、立派な人間になり、政治で世の中を良くするというのが目標となる。まぁこの辺りは、文字通りに取る必要はないと自分は思う。つまり、論語を読んだ人が、全て公務員を志すべきだ、とは考えない。しかし、「学問を学んで、世間の役に立つ事をする」ぐらいは受け取っても良いと思う。まだ15歳だと、日本で世の中に出る人は少ない。学生が多いだろうから、そういう意味でも「学問に志す」のは良いと思う。もっとも、自分が論語に感銘を受けたのは30歳ぐらいだから、学生の頃ではないが、15歳ぐらいで論語を読み、「俺は大学に進んでしかるべき仕事に就くのだ」ぐらいの感じを持てると良い。漠然とした志でも、ある方がないよりずっと良い。

  • 世界観を持つ

これは、思想を知るという事の特徴だと思うが、思想というのは、例え「あんた、そりゃ無茶だ」と思えても、自分の考えで、世界の一切を割り切って見せるとでもいうような、考え方の一貫性というのを持っている。論語を読んで感じるのは、孔子が人間の在り方にまで踏み込んで説いている、という事である。論語では官僚を育成するような方向で人間形成が考えられているのであるが、決して、「良い官職に就くために、みんな頑張ろうぜ」みたいなノリではない。むしろ、「官職に就くために学問をやるべきでない」ぐらいの反骨精神である。良く引かれる言葉であるが「賢哉回也。一箪食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂。回也不改其楽。賢哉回也」(弟子の顔回は賢い。一碗の飯、一杯の飲みもので、路地の奥に住む。人はその憂いに耐えられないが、顔回は楽しみを改めない。顔回は賢い)と論語にある。ここで言われている「楽しみ」は酒を飲んで寝ている事ではなく、孔子の説く「道」を学ぶことである。論語は貧乏を推奨している訳ではないし、富貴を憎んでもいない事は読めば分かるが、この一節で分かるように、貧乏を軽んじている事は確かである。つまり、道が大切なのであって、貧乏を憂うるというのは二の次である。

あまり貧乏でも良くないのは当然であるが、論語には「子曰、君子謀道不謀食。耕也餒在其中矣。學也禄在其中矣。君子憂道不憂貧」(孔子は言った。君子は道の事を心配して食の心配はしないものだ。畑を耕していても飢える事はある。学んでいれば、学びの中から給料が出てくる。君子は道は憂えるが、貧しさは憂えない)という言葉もあり、飽くまで食っていければそれで良く、関心は道の方にあるべきだ、というのが孔子の考えである。これは若い時には特に良い考えだと思う。なぜなら若い人は概して金を持っていない。こういう時、「じゃあお金を稼ごう」という発想になりがちであり、それも間違いではないが、やや「その場の話」になりがちである。要するに、人間「食っていける」という話だけで云えば、今日食っていく事自体はまぁ間違いなくできるので、そこに引き寄せられると、人間が小さくなってしまう。そこで論語の「貧乏でも憂えるな、志が大切だ」という発想が生きると思う。あまり貧乏でも困る、実際困るのであるが、貧乏に引きずられて、志を失う事もまた、恐れるべきだ。論語はやや極端ではあるものの、富や貧乏ではなく、道、つまり政治によって人々を救うという使命への関心を呼び覚まし、こちらを重視すべきだという考えを主張している。これは孔子の思想であって、ない所にはない。自分は論語に出会うまで、孔子の説く道という事を知らなかった。これは孔子が思想を持っていた、と言って良いと思う。この思想が正しいかどうか、正しい点があるとして、どの程度正しいのか、疑ってみるのは良い事だ。しかし、もし何の考えもなく暮らしている者がいたら、論語を読んで学ぶ事は多いだろう。若者が論語を読むと、一つの世界観に触れる事になる。この世界観は、最後まで自分を支えてくれるか分からないが、ひとつの指針にはなる。そういう点が論語にはある。

  • 無茶を言わない

これは前項と矛盾するようであるが、論語には、実現不可能な要求が出てこない。例えば、「富貴に成れ」だと、若いうちはなかなか成れない。自分は歳をとったが成れていない。このように現実的な要求には実現が難しいものがある。しかし、「道を生きよ」であれば、そのような気持ちになって生きる事は、今日からでもできる。ある人が「確実に道を生きている状態」、つまり君子であるかどうかを判定しようとすると難しそうだが、一応は、本人の志一つという事である。身一つで出来る事が要求されているのであるから、そういう点が有難いと云える。

 

さて、いくつか、論語の良さを述べてきたが、先ほど述べた比喩、結婚前に得る妻のようなもの、が論語だとすると、これは容易に別れて良いものではない。若い頃に読むのは良い事だが、歳を取っても、折に触れて思い返し、振り返るべきであろう。自分もまた、読んでみたいと思う。