野狐消暇録

所感を記す

『ほんとうの憲法 戦後憲法学批判』(篠田英朗)を読んだ。

全部理解できた訳ではないが、積年の謎が解けた所がある。

この本で解けた疑問は以下の通り。

Q. 憲法論議の前提が不自然なのはなぜか?

憲法をめぐる議論が、なぜ

  • どういう憲法が望ましいか

という論点を離れて

  • 憲法を守るべきである
  • 憲法を守らないと戦争が起こる

という話になっているのか。

この点は、高校生のときからずっと疑問であった。

何か、非常に不自然な形で議論が行われている。

なぜ、「何がベストか」を一から考えないのだろう。

なぜ、

憲法という平和の礎 V.S. それを壊そうとする悪い支配者」

という構図があるのだろう。

A. 政治上の争いの中で憲法が議論されてきたため

本の中には詳述してあるが、歴史的な経緯とでもいうべきものなので、一言では説明しづらい。しかし思い切ってまとめると、学問的な理由ではなく、政治的な理由でそうなったのである。政治上の争いの中で、憲法を巡る議論が続けられてきたので、純粋に憲法がどうあるべきかという議論はどこかにいってしまったのである。

Q. なぜ現在の日本政府は、国際社会に協調的なのか?

なぜ、平和主義であるはずの左翼陣営が、集団的自衛権を否定し、単独防衛を主張し、国際社会で孤立的な方向を取るのに対して、より好戦的であるはずの自民党が集団安全保障を唱え、国連を中心とした安全保障体制に協調的なのか?

A. 第二次大戦で負けたとき、アメリカが日本をそのように作り変えたから

身も蓋もない話だが、それだけに説得力がある。

第二次大戦前に既に出発していた国際連盟で、戦争行為が非合法化された、にも関わらず、日本は侵略行為を繰り返し、国際秩序を破壊したので、戦後アメリカが、日本を国際社会に協調的な国に作り変えたのである。

日本国憲法もこの文脈にある。

だから、憲法の前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とあるのである。

これは国際協調路線を憲法に書き込んでいるのである。

Q. なぜ完全な武力の放棄を憲法は命じているのか

到底不可能であるにも関わらず、なぜ憲法にはそれが書かれているのか。

できない事であれば、「将来的な目的」として武力の放棄を書き、「現状としては軍隊を保持する」とでもすればいいのに、なぜそうしないのか?

なぜ、理想と現実を繋ぐ努力を一切放棄しているのか。

また、言論の場に、自分のような考えがまるで出てこないのはなぜなのか?

A. もともと、日本国憲法は「国の権利としての戦争」を放棄すると宣言しているだけであり、完全な武力の不保持を宣言している訳ではない。

つまり、憲法によって軍隊が禁じられているという誤った解釈をしているために、憲法が無理な要求をしているように見えているだけで、実際はそうではないのである。

憲法九条が無くても、そもそも国連に加盟している国には国権の発動としての戦争が禁じられているので、日本もその流れの中にあり、戦争はできないのである。

 

自分なりの理解のまとめ

国際社会が第二次世界大戦勝利国を中心に形成される中で、アメリカ主導で日本の平和国家化が進められ、現在の日本ができてきた。

冷戦期を通し、表向きの九条平和主義、裏の日米安保という形式がとられ、市民保守主義が興隆し、政治は生活の背景に後退した。

冷戦終結と共に、国際環境が変化し、日本に求められる役割も変わった。

生活保守主義と九条平和主義は、裏の日米安保と表裏一体だったため、実際政治の変化と共に、「物語」としての役割を終えた。

日本の憲法論議は、改めて国際社会の文脈の中で、本来の学問的な中立性、客観性を取り戻すべきである。