夫婦二人で、小さな部屋に住んでいる。自分が一人で住んでいた部屋である。そこに妻が来た。
箪笥があるが、一人分の服しか入らない。溢れた服は、部屋の隅に積み上がっている。
洗濯機の上に、つっかえ棒を渡して、部屋の中に作った物干しがある。自分一人ならちょうど足りたが、今は洗った服を干すと、多過ぎて干し切れない。晴れた日に外の物干しに干しても、服と服の間に隙間が出来なくて、いつまでも乾かない。
夫婦で食事をするのにちょうど良い大きさの机がないので、妻は小さな丸い箱を机代わりにご飯を食べる。箱の上にカレーに使うような器をひとつだけ載せて、そこに麺やおかずを一緒に盛るのである。
この箱には、「一味追求 不計春秋」と書いてある。漢文書き下しで読めば、「一つの味を追い求めて、春秋を計らず」となるだろう。広告文である。中国に行ったとき、お土産に貰ったお茶の葉が詰めてあった箱なのである。
部屋に敷いてある布団に自分が寝ていると、妻が歩いて自分の上を跨ぐ。迂回しようがないから、仕方がない。うまく跨いでくれればいいけれど、跨ぐのに失敗すれば、自分が踏まれる。
困った事だと思っていたが、家賃を節約するためと言われると、強く出られない。稼ぎがないのは、自分だからだ。
一人用の部屋に夫婦で暮らし始めてから、一年少し経った頃、ようやく引っ越しできる事になった。それで二人で暮らすのにちょうど良い部屋を探した。
これから話すのは、その時に訪れたある部屋である。
不動産屋さんの車に乗って、その部屋に向かった。夏が終わろうとする頃の事であった。空は曇っていて、車に乗る頃には、雨が降っていた。雨が車の窓ガラスを濡らした。
車は、商店が並ぶ道をゆっくりと進んだ。車が学校の校庭の脇を通っている時、
「晴れた日に、一度駅から歩いてもいい」
と後部座席で自分は隣の妻に話した。
「そうですね。車で行くと、距離感が掴めないので、一度歩かれるといいですよ」
車を運転している不動産屋さんが同意して言った。
不動産屋さんは、スーツを着ていた。真っ黒いスーツだ。
川岸の道を抜けて、人通りのない細い路地に入った。停まった車を降り、遠くから見た時、目当ての物件の入っているアパートは、かなり古い建物である事が分かった。二階建てで、一階に四部屋づつ、合計八部屋ぐらいの大きさだった。建物の横正面に来た。階段がアパートの外にある。一階の中央から二階に向かって、左右に羽を広げるように、二つの階段が作られている。階段は鉄でできており、錆びていた。赤茶けている。錆びた手摺りを握って、昇った。部屋に入った。和室である。中は、それほどひどくない。奥まで行って、窓を開ける。隣のアパートが見える。あっちは外観もそれほどひどくない。
少し部屋を巡った後、妻が言った。
「お風呂はどこですか」
不動産屋さんは戸惑って言った。
「あれ、お風呂はどこだろう」
風呂がない。不動産屋さんは、
「あれ、もしかして」
と言って、玄関の方へ行った。
玄関を出た。すると、玄関を出てすぐ左にある、外廊下の突き当たりに風呂があった。共同らしい。戸に手を掛けたが、引いても開かない。力を込めて引いて、やっと少し開いた隙間から、暗い部屋の中に、風呂桶が見えた。
「自分一人なら、耐えられたかもしれないけど、妻もいるので、ちょっと無理だ」
不動産屋さんと妻にそう言った。
「そうですね」
部屋を勧めたはずの不動産屋さんも同意した。それから、不動産屋さんは、独り言のように付け足した。
「風呂が外にある物件は初めて見ました」
僕は、その場の雰囲気を明るくしたいと思って、
「不動産屋さんも初めて見たって」
と言って妻に笑い掛けた。
妻は笑っていなかった。自分は不動産屋さんと喧嘩をしたくなかった。
帰りの車に乗ると、自分は話頭を転じた。
「じゃあ、やっぱりさっきの物件がいいな」
そう言って、今の物件の一つ前に見た物件の話を始めた。
もう、この風呂のない、話の種にしかならない物件について話してもしょうがない。
ただ、こうも思った。面白い部屋を見た、と。あのアパートに住んでいる人も現にいるのだ。何か夢がなければ、自分はあの部屋には住めない、と思った。
「ゆうゆは、あの部屋に住めるの? すごいねぇ」
妻は後でそう言った。ゆうゆというのは、自分の愛称である。そう言われると、やっぱり無理だと思った。本当に、何か強い目標があって、お金を貯めるとか、勉強のために節約して一時的にああいう部屋に住むのでなければ、自分はきっと耐えられない。しかし、慣れてしまえば、平気なんだろうか。現に、今住んでいる小さな部屋も、二人で住むと言われたら、嫌な人も多いだろう。