野狐消暇録

所感を記す

言葉から先に知る事

経験を言葉にするのは楽しい事だ。自分が味わった事が、言葉の世界になって立ち現われてくる。文章を読む時はこれの逆が起きて、言葉を先に知り、その向こうに誰かの経験がある。

自分は最近、女を猫に例える事が適切であると知った。文章の世界、またイラストの世界でもいいが、女を猫に例える事がある。そういう文章を僕は読み、言葉は知っていたのだが、その向こうにある経験がなかった。また、そこに経験がある事すら、殆ど想像していなかった。ただ、女の可愛らしさ、或いは少女の可愛らしさを猫に擬しているのだと思っていた。それがあるとき、女は本当に猫みたいなのだと知った。

それはどういう事かというと、ある力学が働いてるという事である。男女関係における力学である。媚びている方が王様である、という事だ。そういう現実があり、その残酷さを僕は知らずに、ただ女を猫に喩する文章を読み流していたのだ。

他に似た経験があって、それは感謝するという言葉である。感謝するというのは、そういう一種の気持ちだと自分は考えていたのだが、ある時、単なる気持ちではなく、ひとつの態度なのだと経験から知った。どうにもならない事であるにも関わらず、自分にとって有利な事柄に対してとる態度が感謝なのだ。だからこれは単に感情に限って考える事はできない。現実に対する認識と、認識から起きて来た態度を指すのだ。

他にもある。

論語の文章を僕は最近少し読んでいる。とても納得できる話が多い。僕は子供の頃論語を開いた事があったはずである。しかし、その頃よりは、よりはっきり理解できていると思う。孔子ならきっとこう言うのではないか。そんな事が読んでいて感じられる。

これは社会人になる事で、ささやかではあるが、論語に対する理解を支える経験を得たためだろうと思う。論語の文章の向こうにある思想、-- 社会的、政治的な分野に於ける人間性 -- を理解するための素地を得たので、論語の文章をただの概念としてではなく、人の経験に根を下ろした言葉であると感じるようになった。

文章を読む時、ただの言葉としてまずは受け取る。その言葉に対応する経験がなければ、どうしてもそうなる。しかし、ある時、その言葉の向こうにある経験を、自分自身の経験を通して、了解する事になる。また、自分が書いた言葉、発した言葉も同じような経緯を辿るかもしれない。

これは面白い事である。