まず、西脇順三郎を説明すると、この人は詩人である。
僕はかつて、この詩人の詩を読んで、驚いた。
それは、僕がまだ社会人に成る前、日本大学の国文科に在籍していた頃の事である。僕は近世のゼミに所属し、俳諧を専攻した。
俳諧というのは、ご存じの方も多いと思うが、俳句と呼ばれる五七五の短い詩の前身となったものである。
俳諧は今日では連句(れんく)と呼ばれていて、発句(ほっく)という五七五の句に続けて、七七で脇(わき)という句を付ける。ある句の次に別の句を並べて詠む事を「付ける」と言う。また付けた句を付け句という。この付け句は、前の句に良く合っていて、しかも似過ぎないような、ぴったりな句を付けるのが望ましい。七七で付けた脇の次には、また五七五で付ける。これを第三(だいさん)と言う。第三の次は、もう予想が付いたかもしれないが、また七七で句を付ける。この4つ目の句に特別な名前はない。
そうやって、五七五、七七、五七五、七七と繰り返し句を詠むのである。これは普通複数の人が集まって行う。この集まりを座と呼ぶ。
さて、この俳諧乃至連句を学んでいると、俳諧の詩の組み立て方が理解できる。それは、取り合わせの詩とでもいうべきものである。ふたつの異なる物を並べる事で詩の世界を作る。これは江戸の頃、既に俳人の間で言われていた事で、最近になって発見された事ではない。
さて、取り合わせの詩の代表として良く挙げられるのは、以下の句である。
市中は物のにほひや夏の月(凡兆)
正確な意味は忘れてしまったが、確か句の意味はこうである。
市に人が出ていて、夏で暑い。物の匂いというのは、何の匂いか分からないが、いずれにしても、混雑しているから匂うのだろう。誰もいない、野原のような広い所であれば、物の匂いはしないだろうから。
しかし、そういう人の営みの、騒々しい市中から空を見ると、夏の月が出ている。この夏の月というのは、確か詩の約束として、涼しいものと決められている。つまり、夏の市中の雑踏と、夏の空に遠く掛る月、またその月がある所の夏の空の澄み切った広がりが対比され、ここに詩が生まれているのである。
図式化すると、以下である。
①市中
②夏の月
対比されているのは、①と②であると言える。
さて、取り合わせの詩の説明が一通り終わった所で、話を西脇順三郎に戻す。
西脇順三郎氏の書く詩は、本人がどこかで書いていた通り、この取り合わせの詩である。西脇順三郎氏は、「なぜ異なるものの組み合わせが私たちを面白がらせるのか、そこに到ると、頭を下げたい気持ちになる」という意味の事を、これとは異なる言葉で述べていた。自分はその、西脇順三郎の詩をそれと知らずにある日読み、「江戸時代が過ぎた現代においても、取り合わせの詩を書いている人がいるのだ」と思って驚いたわけである。
ようやく話がこの文章の冒頭に戻ってきた。プログラムの言葉で言えば、随分深いスタックであった。スタックと言うのは、プログラムで使う技術のひとつで、文章で言うところの引用のようなものである。引用した文章の中に引用があれば、スタックが二つ溜まる事になる。ふたつ目の引用から一つ目の引用に戻ってきても、まだ引用を読んでいるのである。つまりスタックがひとつ残っている。最初の引用を読み終わると、最初の文章に戻る。ここでようやくスタックが空になる。
西脇順三郎氏の短編について書くつもりで、西脇順三郎氏についての注釈を書き始めたら、随分長くかかったので、スタックが深かった、などと書いたのだ。
さて、そういう経緯で、自分は西脇順三郎氏の詩に出会い、これに夢中になったのだったが、人生はままならぬもの、そして時にはままならぬ方が良いもので、自分も就職する事になった。遊んでいる事はできないという訳で、自分の選んだ仕事に就いて、働き始めた所、なかなか仕事がうまくいかず、四苦八苦しているうち、文学から離れてしまい、従って西脇順三郎の詩も読まなくなった。
しかし、三つ子の魂百までの諺通り、そう簡単に好尚が変わるものでもない。一度好きになったものはやっぱり好きなので、仕事に余裕が出来てくると、またぞろ本を読むようになり、ある日書店で西脇順三郎のエッセイ集「野原をゆく」を見つけて、これを購入した。それがつい先日の事である。
暇がある時に、ちょっとづつ読み進めたのだが、その中に入っていた短編小説「土星の苦悩」がちょっと面白かったので、ここに感想を記す事にするのである。
それで、この題名の「土星の苦悩」だが、これがまた西脇らしい取り合わせの詩になっていると思う。「土星」と「苦悩」を別々に読めば別に何という事はない言葉だが、ふたつ組み合わせて「土星の苦悩」と来られたら、やっぱり面白いと思う。
この小説の内容だが、いくつかの章に分かれており、それぞれが別の話になっている。ある教員の話、あるおかみさんの話、川を上って行った所の温泉で、昔の同級生に会う話などである。違う話が並んでいるのだが、いくつか共通点もある。
それは草木への関心である。
この小説には、草木への言及がたくさんある。これは西脇順三郎が草木を好んでいるためであろう。自分はこの小説を読みながら、登場する植物や木について、端から調べていった。スマートフォンを用いて画像検索を行い、草木の見た目を知ったのである。調べる事で、自分はその草木が何であるか分かったが、もし調べずに読み進めていたら、半分も分からなかっただろう。ケヤキの木ぐらいは分かったが、後は名前は知っていても、思い浮かべる事ができない植物が殆どであった。もっとも、難しい学名が記してある訳ではないから、庭や植木に関心がある人なら、おそらく大体は分かるレベルなのだろうと思う。少なくとも、西脇氏は全部知っていて書いただろう。西脇氏が植物を調べながらこの短編を記したとは思えない。
さて、他にも共通点はある。それはどの章も、日記のような書き方をしてあるという事である。教員の章は少し純文学風であった。これはおそらく、知識階級調とでもいうべき調子があるからだろう。おかみさんの章は、江戸っ子風な所があった。これは町人風に書いてあるという事になるかもしれない。文章から何となく、社会生活が透けて見え、それがアクセントになりつつ、あまり社会生活は前面には出てこずに、雑然とした出来事が並ぶ。何かそこが日記風という感じに受け取れるのである。
全体がそんな調子なのだが、共通点を考えるとなると、当然の事ながら、文体についても触れねばならない。なぜなら、文体はこの小説全体を通して同じであり、小説から受ける全体的な印象に影響を与えているからである。それで文体は、特にこの小説のために考えた文体という感じでもなく、西脇氏のいつもの文体である。これがなんとも不思議な文体である。一言で言うと、固定観念を全く無視して自由に記してある感じが自分はした。文章というのは、場合によると、物事に対する感想までが、固定的な観念に沿っている。時事的な事について書く文章は、最後に世の中を憂えて終わらねばならないとか、さっきの俳句の話ではないけれど、ロマンチックな場面を描いた文章では、梅に雪が降り積もらねばならないとかである。この小説では、そういう定型的な文言が破られており、姿を見せない。しかし、別に気負って何か、特別な文体を用いたという事でもない。しかし、既成の観念に寄り掛かっている所がまるで見られない。文章の規則という点では、かなり自然な文章に近く、特別な書き方をしている訳ではないが、定型的な観念に従っていないために、どことなく新しさというか、個性のようなものを感じるのである。これは面白いとしか言いようがない。
そんな訳で、草木ばかり出てくる小説だが、興味を持たれた向きは是非読んでみて下さい。