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野狐消暇録

所感を記す

ヴィクトリアの未着工建築 [小説]

 先日、神保町の古書街をふらふらと歩いている時、工学の古本屋を見つけて中に入った。壁に本が並ぶ階段を降りて、書棚と書棚の狭い間を進むと、奥に曲がり角があった。奥に進むと希少本がガラスケースに入っていくつか展示してあった。その中にその本はあった。非常に珍しい本であるとかつて教わった教授に聞いていたので、とても興味を惹かれ、ぜひ手に取って見てみたいと思った。店員を探し、レジに若い男を見つけた。頼むと、ちょっと待ってくれと言ってどこかに行った。帰ってくると、店主が出かけていて、あと1時間ほど戻らない。店主が帰るまで待ってくれないかという。自分は用事を控えていたので、その場は諦めて帰った。しかし、どうしても気になるので、店主に手紙を書き、今度見せてくれないかと頼むと、快く承知する旨の返信を寄越してくれた。

ある雨の日、約束の時刻にもう一度工学の古本屋を訪ねて、本を見せてもらった。本は面白かった。しかし、その本の内容を直接ここに記すのは止そうと思う。本は建築に関するものであり、しかも図版を主としているので、うまく説明できる自信がない。その代わり、本に付けられた跋文を紹介したい。おそらくこの跋文を紹介する事が、そのままこの本の内容を紹介する事にもなると思う。

 

その本の著者は、40歳を過ぎた、ヴィクトリアという女である。女が40歳を過ぎた時、その本が出版されている。それは著者の生年と本の出版された日付から分かる。この女が跋文の中に自身で書いた略歴によると、彼女は若い頃、商業学校に通ったがすぐに止め、建築系の専門学校に入り直した。両親の生活が貧しく学費がなかったため、4年制の学校に通えず、伯母の家に下宿しながら、2年制の学校を出た。すぐに建築事務所の仕事に就くつもりだったが、就職活動をしている最中、隣国との緊張が高まった。ちょうど新年に田舎に帰った時、戦争が始まってしまい、就職どころではなくなった。田舎で両親と日を送るうち、町長の館で働いている男との縁談があり、結婚して子供を二人もうけた。そのうちに戦争は終わったものの、建築の仕事はそのまま諦め、子供を育てているうちに日が経った。ある日、港街まで用事があって遠出した時、偶然建築を教わった先生と会った。再会を喜び、招かれるままに先生の家で歓待を受けた。その家は学生の頃に何度か訪れた事があった。懐かしい先生は既に60歳を過ぎ、建築学校の教師は辞めていた。しかし、本棚には教職を勤めていた頃に収集した多くの蔵書がまだそのまま残っていた。その本をいくつか見せてもらった。本の中に見た事のない建物のスケッチがあった。聞くと外国の建築を写したものとの事。その日は先生の家に泊まり、明くる日村に帰った。それからしばらく図版で見た外国の建物の事が頭に付いて離れなかった。気が付くと夜仕事を終えてから建物の設計図を紙に落書きするようになっていた。それは先生の家で見た外国の建築に想を得て彼女の考えた建築であった。ひとつ描き上げると捨てるのが惜しくなった。折角描いたのだからと手元に置いておくうち、またひとつ、またひとつと少しづつ設計図が溜まっていった。彼女が跋文に記すには、この本はその設計図に目を留めた人に勧められて出版するものである。私は職業建築家ではないから、この本に収められた建築で実際に建てられたものはひとつもない。また、実際に建てようとしても、建てられないに違いないような設計が多く含まれている。これは依頼を受けて描いた設計ではないから、そこまで深く実現性を考慮しなかったのである。しかし、それが却って、人の思い付かない、奇異な外観や内装を生んだのかもしれない。おそらく人が出版を勧めたのも、その故であろう。

 

彼女は本に題を付けなかったようであるが、おそらく出版元がこの跋文を読み、ひとつも実際に建てられなかったという所を受けて、『ヴィクトリアの未着工建築』なる表題を付けたようである。