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野狐消暇録

所感を記す

冷たいようだが

一見冷たいようだが、人の生活に不可欠なものがある。

それは何かというと、例えばお金だ。お金は、誰でも使う事ができ、額面通りの価値しかない。話し掛けても答えてはくれないので、通り一遍で考えると、つまらないものとも考えられる。実際、お金に拘るというと、如何にも下らない事とする考えが古くからあるようで、それも理由のない事ではないのかもしれない。なぜなら、お金は使ってこそ価値があるので、お金を手段とするものが他になければ、価値がないからである。常に手段であり、目的にならないとすれば、確かに価値がない、或いは下がるともいえる。しかし、言うまでもなく、それはお金の一面に過ぎない。お金を使う立場に立てば、確かにお金は二次的なモノに過ぎない。しかし、お金は人と人とを結ぶという意味がある。これはお金が物の価値を抽象しているというか、専門用語で何というのか知らないが、ともかく実際の目的から離れて、物の価値をお金を通して一旦宙に浮かせてみせているのだ。まぁ経済学は知らないので、この程度の理解である。

似たものに、法律というものがある。これは誰に対しても、平等である。自分に対してだけ優しく、人には冷たくする、という事はない。そう考えると、ちょっとよそよそしい。友達というよりは、知り合いといった態度だ。つまり冷たい。

しかし裏を返せば、仲が悪くなる、という事がない。法律は人を守ってもくれる。自分の機嫌がちょっとぐらい悪くても、法律は咎めたりしない。自分の見た目も気にしない。それどころか、性別、年齢、出身地、家柄、美醜、賢愚、一切気に留めないで付き合ってくれるのだ。こんな友人は他にあるまい。とても信用が置けると思う。

今例として挙げた事は、固く言うと、経済、法律と言った言葉が適当するものだ。これらの一見する所の冷たさとその裏側にある良さはどこから来るのか考えてみると、平等という点にあると思う。普段友人や知り合いと付き合う上で自分が感じる居心地の良さだったり、或いは問題、仲が悪くなるとか、反目するとかいうような事、そういう事がない、この点が冷たさという印象になる。またそういう感情的、私的なものに左右されない点が、信用として感じられて、もう反面の良さとなるようである。

こういう性格を持つものは、他にもいくつか挙げられると思う。

あとひとつだけ挙げよう。

それは礼儀作法である。礼儀作法をうるさく習ったのは、茶道研究会にいたときである。茶道というと、礼儀作法を習う場所のように心得る人もあるそうで、実際色々あった。菓子を食べるとき、わざわざ隣に座った人に断わってから食べるのだ。この断りを忘れると、もういけないのである。更に菓子皿を軽く掲げて頭を下げる。これは茶道の世界以外で見た事は一度もない。相撲取りが土俵入りでやっていたような気がするだけであり、それも菓子皿ではないだろうから、やっぱり茶道だけである。

この礼儀というのも、かなり所謂我々の「冷たいけど便利」なヤツの一人である。礼儀作法を通す事で、文化的に異なる人、意見が違う人、異なる年齢の人とやりとりができるのである。これがなかったら、どう年上と接した良いか。或いは女性に話しかけたら良いか。分からないのである。初対面の人と話ができるのもこれがあるためである。もし礼儀作法がなかったら、言いたい意見が言えない、こちらの都合をうまく伝えられないなどの事態が生じる。これは礼儀が「便利」である事を示している。この便利の裏面、即ち「冷たさ」については、慇懃無礼という言葉がある位で、皆様ご存じの通り、わざわざ書き記すには及ばない。

縷々述べ来たって恐縮だが、この文章に結論はない。今まで述べたのが即ち言いたい事であり、ここから何かを導くつもりはない。元々は外交問題について述べるつもりで、文化的、また民族的差異を超えるために政治が果たす役割を指摘したいと思い、そのための導入として上記の話を始めたのだったが、これはこれで一個の話だなと考え直した。いつも政治の話をしていては、女が寄ってこないだろうから、この話はこの話でおしまいにし、政治の話はまた別の時に書こうと思う。