野狐消暇録

所感を記す

作品の自立性を考える

文学作品や映像作品、絵画などの芸術作品は、作家からも読者からも自立して、その作品自身として成り立っているのではないかと思う。そう考えるに至った理由を以下に述べる。

 

そもそもの発端は、作品を作家が作っているにも関わらず、その作品について自分に不満があるのはなぜかという疑問から始まった。作品が受け取り手に媚びていて、自立していないのが嫌だったのである。なぜ自分はそんな風に考えるのかと突き詰めていくと、作品自身の要求によって表現が行われる事により、そこに自然な表現が成り立つ事、自分はそれを観たいと思っている事が分かった。

もうひとつ自分が良く不満に感じる事があり、それは作品を受け取る時、その作品がどうであるかに関わらず、自分で勝手に受け取って良いのか、という問題であった。自分の結論としては、様々な立場から作品を分析する事は可能であるが、作品自身の立場から見ていくのでなければ、単に外部からの1解釈にとどまり、正しい理解ではないというものであった。つまり、厳密には、受け取り手の自由というのは、取り得る立場の自由であって、正しく理解しようと思ったら、その作品の表現をそのまま、作品の立っている立場から理解する必要があるというものである。僕の考えは、作品は受け取り手の数だけあり、どの解釈が正しいか、一義的に決めることはできない、とするものではない。

 

自分はおそらく恣意的に構成したもの、組み合わせたものが嫌なのだと思う。組み合わせるにしても、その作品の表現として、作品表現の中心となる判断力がそこに働いていればそれは問題ない。問題ないというより、それが表現という事柄において、とても大切である。そういう選択そのものが表現であるような物が一方であり、単に社会通念に媚びているだけの結末とか、会議の結果決まったような大義とかが出てくると、もうそれを表現として受け取る事ができない。なぜなら、それは作品の表現としての判断とは別の判断がそこに働いている事になるからだ。

 

受け取り手の自由を制限するような話をしたのも、そこに不満があるためである。作品に対して、自分がどう受け取ったのかという事はあるにはあるが、それはあくまでも自分の感じ方であって、作品の中にある判断とは別である。

僕は作品の中にある判断を理解する事が表現を理解するに当たって重要であり、その理解なくして作品を解釈することは無理であると思う。