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野狐消暇録

所感を記す

弁証法的人間

大袈裟な題になったが、そういう事を考えた。「弁証法的人間」というのは、昔本で見た語である。

人が何か目的を持って取り組み、目的を達すると、目的と自分との間にある対立が取り払われて、一体となる。これを止揚というそうであるが、そうなると、さらに自己と対立する目的観念が現れ、そこに争闘が生じる。この新しい目的と自己との葛藤が目的の達成により消滅すると、2度目の止揚が起こる。同じ事が、3度、4度と繰り返し起こり、永久に終わる事がない。これを歴史の営みと考える。弁証法的人間というのは、そのような営みの中にある人間を指すのである。

こういう考えを本で読み、その時はそんなものなのかと受け止めて、特に自分で咀嚼する事もなく、それっきりになった。

その事を急に思い出したのには、理由がある。

社会人になってから、プログラマになろうと考え、そうして一応目的を達した。腕前はともかく、プログラミングでお金を貰ったから、プログラマだと思う。

それで、今、次の目標を考えている。

そういう自己の姿を振り返ってみると、先に書いた歴史的人間、弁証法的人間に見事に当て嵌まっている。

自分の人生を通して、本に書いてある事を理解するのは面白い。面白いは面白いが、それと同時に、その本の先に書かれていた事がとても気になっている。

それは弁証法的人間の原理的な死について書かれていた。

弁証法には終わりがない。それは永遠に最終的な目的に達しない事を示していて、歴史の終末を予言しているというのである。

書いていて怖くなったので、この辺でおしまいにする。