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野狐消暇録

所感を記す

蝉丸

蝉丸は、後撰集にて、以下の歌を詠んだ。

これやこの 行くも帰るも 別れては
     知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関

この歌は聞いた事があったが、歌に込められた意味は知らなかった。

今日、自分は能を観てきた。

蝉丸という能である。蝉丸は、盲目である。貴い身分に生まれながら捨てられて、山に置き去りにされる。転んでしまい、泣く蝉丸。ある日琵琶を弾いていると、それを逆髪という女が聞く。この女は蝉丸の姉である。蝉丸の姉は、髪の毛が逆立っており、それを人に嗤われている。物狂いになった姉が山を通り掛かり、蝉丸の琵琶を聞いて近づき、蝉丸と再会する。喜ぶ二人。しかし、別れねばならない。別れてゆく二人を描いて、能は終わる。

これが蝉丸という能の筋書きである。能は舞や謡が大きな役割を果たすから、物語を解しただけでは、鑑賞に不十分である。しかし、今書きたいのは筋書きに関することなので、舞と謡はしばらく措く。

不思議に思ったのは、なぜ二人は別れるのかという点である。自分の慣れ親しんだ物語の形式によると、長い事会えなかった二人が再会したとなれば、そこで話は終わるのである。なぜ、と問われても答えられない。理由があってそうなっているのかもしれないが、経験則としてそうだという事しか知らないためだ。もし、続くとすれば、もっと新しい物語展開があるはずで、再会した二人が特に理由もなく別れて終わるというのは不可解である。

自分はこの筋書きに関心を抱き、色々と考えを巡らせた。

自分が不思議に感じたのは、純粋に鑑賞を通してそう感じたのではなく、飽くまでも既成の物語の形式が予め知識としてあり、その知識と比較して不思議に思ったに過ぎない。つまり、既存の物語の知識が先入観となって、その先入観から能を観ようとしたから不思議な気がしたのであって、能の鑑賞それ自身から言えば、特に不思議な展開という感じはしなかった。

現実生活を振り返ってみても、人に会った後に別れるのは当然であり、それがそのまま物語に描かれているのだとすれば、その点からも、不思議と取るべきことではない。となれば、却ってハッピーエンドの方が演出的な筋書きであって、能は実際の生活をそのまま書いているだけかもしれない。

自分は今のところ、そう考えているのである。能は、描かれる世界を自分の希望する世界として描き変えるような事はせず、その世界を物語という形で抽象化し、そこに詠嘆があって、舞が舞われる。そういう事なのではないか。

蝉丸の前に鐘の音という狂言があり、こちらの筋書きは以下である。

主人が太郎冠者に頼み事をする。息子が成長したので、刀を差すお祝いをしようと思う。ついては刀の細工に使う金の値を調べてほしい、と。

この金の値という言葉を鐘の音、即ち寺で撞く鐘の音色と取り違えた太郎冠者は、鎌倉中の寺を巡り、鐘を撞いて回る。小さな音、固い音、割れた音、いくつも鐘を撞いてみるが、これという良い音がしない。しかし建長寺の鐘を撞いてみると、伸びやかに響く良い音色で、太郎冠者は満足し、帰路に就く。

帰って主人に報告すると、主人は怒り出し、太郎冠者は失敗した事に気付く。太郎冠者は暇を言い渡されるが、近くの者のとりなしで、主人の前で鎌倉中を巡った顛末を即興で舞い、鐘の音もまた目出度いとなって許される。

この話の筋を知った時も、似たような感想があったのである。実際に観てみて、最後主人に許される結末と知ったのだが、会場で買ったプログラムには、暇を言い渡される所までしか記載がなかったから、てっきり首になって終わるものと思い、驚いたのだ。なぜ驚いたかと言えば、さきほどの能と同じ理由である。最後に首になって終わる話というのが、自分の物語経験と合致しなかったためである。能や狂言の言葉は聞き取れない事があるから、はっきりそうだとは言えないが、自分の見た所だと、やはり最後に太郎冠者は主人に許されたように思う。その点、ハッピーエンドを当然とする自分の物語経験と結局は合致していた。しかし例えそうであったとしても、作品を通して見て、やはりそういうハッピーエンドの法則はやや弱いのではないか。ハッピーエンドの法則だけでなく、物語全体の骨組みが自分の良く知る形式とはどこかで違うように思う。その点が気になるのである。

最近岩波文庫から出ている『唐宋伝奇集』という中国の説話集を読んだ。説話が複数篇収められており、そのうちのいくつかを拾って読んだのだが、これもまた独特である。しかしこちらは中国の怪談をかつて読んだ事があったので、もう経験済みといった部分があり、所謂現代的な物語形式ではないにせよ、一応受け取る事ができたように思う。

狂言は日本の芸能だから、中国の説話より親しめても良さそうに思うが、うまく理解できていない。

冒頭に置いた蝉丸の歌は、逢坂の関を大袈裟に歌っていて、少し奇異な感じを受けるが、ここで逢坂の関は、内と外を分ける境界であるから、このような感慨になるのだそうだ。少し違ったかもしれないが、狂言の始まる前に行われた馬場あき子氏による解説を聞いていて、そのような解釈が有り得ると知った。

馬場あき子という名前は知っていたが、お会いするのは初めてである。お会いするといっても、遠くから舞台の上に立つ品の良さそうな着物姿のお婆さんを拝見しただけである。ただ、あれだけ簡素な筋書きに対して、深い理解を述べていて、流石歌人だと関心した。

蝉丸の歌をばっさり話せるのも、おそらく普段から歌に触れている歌人だからに違いない。そうでなかったら、こういうものかな、で終わってしまいそうな歌だから。