野狐消暇録

所感を記す

萩原朔太郎の詩

感想メモ<詩の会>

雨がざんざか降っている。
傘を手に神保町へ行く。
会の開始1時間前に着き、スターバックスで待機。
一応萩原朔太郎の詩集と短篇集を持ってきていたが、読まず。
19時に会開始。
萩原朔太郎の詩に触れるのは学生以来。
多くの人が参加していた、20人ぐらい?
神田珈琲伯剌西爾は、前の堀口大學の時にも来たので二回目。
とても雰囲気のあるお店。
書店グランデから通りを挟んで向かいに、地下に降りる階段があり、階段の前で参加者がたむろしていた。
今日は会費が後払いのようである。
毎度の事ながら、ポエトリーフード(今回の回のために、お店にお願いして作ってもらったケーキ)を頼む。
杏子の入ったスコーンのようなもの。
珈琲を飲みながら詩をみんなで読む。一人々々詩を朗読。自分に当たったのは「殺人事件」という詩で、これは昔から好きだった。
詩のイメージと、殺人事件という推理小説風の道具立てが面白い。
名台詞ではないが、かなり萩原朔太郎の詩が、劇に近いという事に今回気がついた。「殺人事件」も最後の聯「みよ、遠いさびしい大理石の歩道を曲者はいっさんにすべっていく」が決め台詞のようにバシっと決まっている。
また、今回特に勉強になったのが、萩原朔太郎後期の詩。これは読んだ事がなく、初めて読んで勉強になった。「虚無の鴉」などは、前期の生々しい感情が陰を潜めていて、僕には読みやすい。ファンが付かないのも分かる。
前期の詩が好きな人と、後期の詩に惹かれる人は、おそらく別のクラスタだろう。
自分は以前国文科にいたときに、萩原朔太郎の詩を読み、病的、かつ観念的であるとして、否定的な感想を持った。
だが、今回後期の詩を読み、詩に対する見方として、以前に抱いた病的だとか、観念的という感想は、かなり人生観というか、思想に偏した見方であって、萩原朔太郎の詩を本当に理解する立場ではなかったと思う。
詩の美として、本当に問題にすべき所ではないというのが、今の意見だ。

今回の詩の会で、萩原朔太郎の詩が、西脇順三郎に与えた影響から、さらに振り返って萩原朔太郎の詩を考えた。
そうした時、観念性の持つ、詩的な表現の強さというもの、また、詩の世界が如何に萩原朔太郎によって自由になったかを思った。
「悲しい月夜」で、「黄いろい娘たちが合唱してゐる」とあるが、やはりこれは尋常な詩句ではなく、新しい世界を開いているのだと思う。「悲しい月夜」では、ネガティブな、陰鬱な言葉が並ぶ。しかし、そこから最終的に感じられる詩情は美しいというしかないものであり、決して陰鬱ではない。
これはかなりモダンな事なのだと思う。
言葉について思うのは、彼は言葉によって、イメージを限定する事を故意に避けているのではないか、という事だ。
「黄いろい」という言葉、「娘」という言葉、ある程度難しい言葉もあるが、あまり具体的に何かを指す言葉を使わないのだ。
「遺伝」という詩で、母のセリフに「子供」と自分の子供に呼びかける詩の言葉があり、「この言葉は普通言わない」という意見が出た。僕はしかし、息子とも言わず、娘とも言わず、「子供」と子供に呼びかけるような詩にしたのは、そこの詩行に求めていたのが、母子ということであり、それ以上ではなかったから、余計な限定を避けるために「子供」と子供に呼びかけるようにしたのだと思う。
これは谷川俊太郎の詩を読んでいて特に感じるのだが、萩原朔太郎の場合も、その言葉が何を指しているかを考え、詩を作っていると思う。
「悲しい月夜」もそうだが、彼は有りふれた言葉を組み合わせて詩を作る。そのように、構成的に詩を作るから、谷川俊太郎を連想してしまう。もちろん違った詩だと思うが、作り方が近いと思う。思想は、もちろん違うように思う。

詩の言葉の無用な限定を避け、どこにいるともしれない「個人」が書いている詩というのが、詩から私的なものを取り除いていて、見事だと思う。<飲み会>
今回ポエカフェ第50回という事で、懇親会があった。
自分も出席した。
もう21:30を過ぎていたので、そんなに長くは居られないのだが、ともかく出席。
ちょっと詳しめの自己紹介というか、近況報告を一人々々していって、自分の番が来たとき、主催のPippoさんが、「婚活しているんだよね?」と振ったものだから、自分の婚活について語ってしまった。
お見合いの席で永井荷風について語ってしまった話だとか、色々。
みんな笑ってくれたので、ちょっと気が楽になった。
交流が広がるのも楽しい事である。
また機会があれば、会に参加したい。