野狐消暇録

所感を記す

科学は信頼するに足る。

科学というのは、信頼するに足る。
これからその理由を述べよう。

僕がネット上で見聞きした話の中で、女性の労働環境が劣悪だから、結婚する人が少ない。政府は女性手帳など配る前に、女性の労働環境を改善せよとの意見がある。
僕はこの意見を昔聞いたのだが、それより以前に、出生率の低下は、ある程度社会が発達するとどの社会でも起こる現象だという話も聞いていて、この二つの話の間に矛盾が生じた。
それで自分としては、労働環境と出生率の相関はないのではないかと考えた。別に調査した訳ではないから、確証のある事ではないが、戦後に生まれた父が7人兄弟だった事を考えてみると、戦後すぐの社会状況が、今より良かったはずはないから、これはひとつの反証である。
そんな訳で、もし労働環境と出生率に相関がないとすると、件の社会改善論の根拠が崩れる事になる。しかし、果たして、女性の労働環境の改善運動は不要なのか、と突っ込んで考えてみると、これはこれであって良いのではないかとも思う。
つまり問題は、労働環境の改善という社会福祉的な政治運動に、はっきりしない根拠を持ち出した事にあると思う。これが問題である。
そうではなくて、女性が働きやすい社会環境を作ろう、という事でいいのではないかと思う。働いている女性が、子供を産みやすい社会にしようという意図であって、それで完結してしまって、十分成り立つと思う。働きやすいというのは、今までの仕組みでは働けなかった人も働く事になり、生産性が向上する事になるから、非常に良い。
また働く方に無理がなくなる。これも良い。労働被害のような事がなくなる。
柔軟である、というのは、カスタムメイドで働けるということだから、無理な働き方が減ると思う。
だから、その意図は良いとして、話を元に戻すと、なぜ、妙な根拠を出したか、という事である。
これはつい出したのだと思う。こういう話は良くある。
最近の若者は駄目だ、というのも良く聞くが、この話というのも、昔の若者と、今の若者を比較した結果ではないと思われる。
もっと長い単位でも、同じような話が出る事がある。それは、堯、舜の時代に理想の政治が行われていた、という話である。これは孔子がそう考えていたらしい。そういう時代が実際にあったか分からないが、おそらくそれほどはっきりした比較はなかっただろうと思う。
また、日本でも、末法の時代という事が考えられた事があった。世も末だ、という訳である。
一体いつと今を比較しているのか。単に昔に理想が実現していた、と仮に考えてみたに過ぎないのである。
現代の社会に飛び交う言説を考えてみると、かなりの変遷がある。戦前、戦後、現在でかなり異なっている。それらの意見、社会的な風潮、そういうものを考えた時、上に述べたような、もっともらしいが根拠の薄弱な、もっというと確たる根拠のない意見が相当含まれているのではないかと思う。
 こういう言説を考える時、科学的な態度というのは、いかにも堅実であると思う。
 事実を元に考えを進める。決してこちらの考えが最初にあって、都合の良い根拠を探すのではないのである。またもしそのような進め方をしたとしても、ちゃんと根拠があればよし、なければ駄目で、はっきりしている。非常に冷静である。僕はこういう態度が非常に望ましいと考えている。科学は明治時代にヨーロッパから学んで以来、日本もこの活動に加わって、一貫して発達してきている。
こういう事が本筋だと思う。僕は様々な考えが世の中にあるが、その意見が一度科学の洗礼を受けて、より現実的な、根拠のある意見になる事を望む。意見に確かな根拠があるようであれば、説得力があるし、またその意見を実行に移した時、成功しやすくなると思う。歴史的な研究というのも、そういう点で大切だと思う。歴史的事実を研究するというのは、社会を考える基礎になる。

 まあそんなわけなので、科学的に考える、取り組むというのは、色々な面に応用が効き、非常に良いと考える。