こんな感じで栓抜きを使い、蓋と本体の間に隙間を作るように、瓶を回しながらちょっとづつ力を入れる。
蓋がやや歪むし、蓋に傷もつくが、それでも良いという方はドウゾ。
こんな感じで栓抜きを使い、蓋と本体の間に隙間を作るように、瓶を回しながらちょっとづつ力を入れる。
蓋がやや歪むし、蓋に傷もつくが、それでも良いという方はドウゾ。
前日は会社の納会。休みに入ってすぐに中国に発つ。
朝は、近所を散歩。スーパーマーケットに行く。
朝は遅く起きる。九時頃、リビングに出る。
かおりのお姉さんの旦那さんが来るらしい。
今日からザザは幼稚園に行く。
青島の歴史的な地区へ行く。メンバーは、自分、かおり、飛さん、
暇だが、かおりの風邪がまだ良くないので、外に行きにくい。
朝の五時頃起きると寒気がする。頭も痛い。風邪を引いたらしい。
弟さんの運転で出掛ける。
ウイルスもしくは細菌が原因と思われる腸内炎に罹患し、2日会社を休んだ。まだ転職して間もないから、有給休暇がない。正月始めも含めて、4日も欠勤してしまった。月末の給料明細でがっかりしたが、働いていない以上、仕方がない。
四十何年ぶりの寒波とかで、とても寒い日だった。11時半頃に家を出て、日本大学文理学部に向かった。途中、井の頭線渋谷駅のホームにあるキヨスクでおにぎりとレモンジュースを買い、軽く腹ごしらえをする。明大前で降りて、京王線に乗り換える。学生時代の四年間、通い慣れた道だけあって、今でも乗り換え先のホームをそらで覚えている。明大前駅の構内には京樽という巻き寿司を売る店があり「ここでお昼を買えば良かったか」と後悔したが、ゆっくりと食べている時間はない。
京王線下高井戸駅で電車から降りた時には、初釜の受付開始時刻の10分前だった。大学まで続く商店街を歩く。知らないうちに、新しいラーメン屋さんができている。商店街を抜けて、大学の敷地の外に着いたら、歩いてきた道を左に折れ、裏口に向かう。裏口から大学の敷地に入る。空は良く晴れて、先日の大雪の名残りの雪が、あちこちに寄せられている。
サークル棟の2階に上がると、すぐに受付があった。名乗っていないのにすぐに客と気付いてくれ、芳名帳に名前を記す。学生もスーツだが、自分も着物がないからスーツである。コートをクロークに預けてサークル室に入る。奥の一間が待合になっていて、今日だけ緋の絨毯が敷かれている。今部長をされているK君が挨拶してくださったので、絨毯に座ってしばらくしてからK君を呼び、持ってきた物を渡す事にした。
持ってきた物というのは、アーモンドとピーナッツである。アーモンドは殻付きのもので、甘い味が付いている。ピーナッツは殻なしで、やはり甘い味付けである。これらの木の実は両方とも、中国の山東省にある青島市で購ったものである。
なぜ青島市で買った木の実を自分が持っているかというと、理由はこうである。
妻が調子を崩して、お母さんがいる中国に帰り、静養する事になった。それが12月の初めの事である。自分も年末年始の休みに入ると、飛行機で青島市に渡った。妻の調子はもう大体良くて、正直中国に帰る必要もなかったかもしれないが、お母さんが心配されるので、それで帰ったところがある。
それで結局、ドイツ租借時代の街並みを観に行ったり、二人で近くの市場に行き、買い物をしたりして過ごした。そうやって青島を見て回るうち、量り売りで売っているアーモンドを買い、袋で売っていたピーナッツも買ったのである。
さて、正月過ぎに日本に帰国し、初釜に行く事になったのだが、お茶会に行くとなると、身内で開く初釜とはいえ、先輩としてお祝いをいくらか包むべきところである。しかしこのところ、懐が寒い。そこでどうしたものかと考えて思い付いたのが、前述のアーモンドとピーナッツである。お茶会の朝、妻が袋に詰めたアーモンドとピーナッツを渡してくれたのだが、その時「皿も持っていくか?」と妻に聞かれた。
それは全く思い付かなかった。多分茶道研究会には、お菓子を出す皿があるだろうとは思った。何しろ、茶道にはお菓子がいつも出てくるのだから、皿がない筈はない。しかし、それは主菓子を乗せる皿だからな、普通のお菓子を出す皿はそんなにないかもしれない。
それで皿を用意する事にした。最初、家で餃子を乗せたりしている薄い皿を妻が用意しようとしてくれたのだが、いい事を思いついた。昔働いていた会社の懇親会のゲームで貰った、ロイヤルコペンハーゲンの皿がある。これはなかなか良い皿だと思っている。デザインもうるさくなくて、割合に上品だ。
この皿を持っていき、ここに木の実を盛ったら良かろう。みんな茶道研究会のメンバーなのだから、多少皿などにも気を使う人だろう。そう考えると、ちょうど良い。
それで話を元に戻すと、部長のK君にお土産を渡そうとして、「先日中国に行ったんだけど、そのお土産があるんだ」と言い、続いて持ってきた袋から皿を取り出した。これがいけないといえばいけなかった。見ていた部員が「おお」と言って喜んでしまったのだ。どうにも言い出しづらかったが、「これはお土産じゃないんです」と言って、後からアーモンドとピーナッツの包みを取り出して、K君に渡した。
みんなアーモンドとピーナッツを食べてくれ、美味しいと言ってくれた。殻付きのアーモンドは日本では珍しいし、アーモンドやピーナッツは塩味が当たり前で、甘い味付けも日本では見ない。それで大したものではないんだけど、異国情緒だけはそれなりに備えていて、お土産としての役割を果たしてくれた。
N先生にご挨拶して、ずっと茶道研究会を指導している、先輩のIさんにご挨拶。N先生の着物の柄が気になって、褒めていいのか考えて、褒めないでおいた。僕なんかが着物を褒めると、馴れ馴れしいし、却って失礼になりそうである。I先輩はまだ歳が近いから、後で「これは菊ですか」などと聞いてみた。なんでも、一年中着られるように、色々な花をあしらってあるそうである。
一席お茶を頂いて、せっかくだから、もう一席入った。客はOBや卒業生、在校生などである。いわば身内のお茶会なので、ざっくばらんとしたもので、席の間も色々な世間話が出る。隣の待合とは襖一つを隔てているだけなので、待合の話まで聞こえてくる。僕も最初は流石に茶席なのでどうかと思っていたが、ついつい最近転職した時の面接の話などをしてしまった。
それはそれで、和気藹々として結構だし、何も止めるつもりはないのだが、黙々と茶を点てる亭主と、決して笑わない半東が何とはなしに気になり始めた。どう思っているのか。別に怒っているはずはないが、普通、客と亭主の在り方が、ここまで離れてしまったら、亭主がキレていてもおかしくはない。作法通り進めると、亭主と半東は何も話さない事になっているから、それで話していないだけだとは思うが、気になる。
それに、茶道の雰囲気というのも、やっぱり徐々に壊れてきているのかもしれないと思った。つまり、あまり賑やかだと、茶道的ではないのである。もっと静かでなければならない。和敬清寂と言うが、ここには「寂」の一字があるではないか。
そんな小難しい事を久しぶりに考えているうち、茶席が終わった。足の痺れが取れると、自分はあちこち写真を撮った。この行為は所謂道具茶というヤツで、あまり上品ではないかもしれないが、SNSに写真を上げる習慣が付いてしまって、ここでも何枚か写真に収めた。
高級品はないけれど、懐かしかったので、自分には楽しかった。
またしても言い出しづらかったが、K君に言って木の実を盛っていた皿を返してもらい、そろそろと思って、お暇した。皿は置いてこようかとも思ったが、妻の許可を貰っていないので止めておいた。
しかし、賑やかな初釜だった。部員が多い方がやっぱりいいなと思った。しかし、障子から畳から、随分傷んだものだ。備品として大学が交換してくれるなら頼んだら良いし、ダメなら畳はともかく、障子ぐらいは交換できそうだ。物を大切にするのも茶道のうちだが、セロハンテープで補強した障子は、やっぱり張り替えた方が良いだろう。
部長のK君と半東の方の雰囲気が、かつての自分達に重なって面白かった。誰がやっても、あんな感じになるのかな。それが茶道の力なんだろうか?
自分がC社に入社したのは、2015年4月の事だった。1年半少し前の事だ。
自分はソフトウェア・エンジニアとして仕事の上達を望んでいて、C社は自分に合った環境だった。
C社には入社する2年程前から派遣のエンジニアとして来ていて、職場の様子は良く知っていた。職場の上司はC社の社長で、エンジニア気質の人であった。
仕事はWebアプリを作る事であった。自分はWebアプリを作った事がなかったが、C社の現場で初めて作った。HTTPリクエストを受け取るプログラムが書けなくて、仕事をベテランエンジニアに回されてしまった事を覚えている。その程度の技術からのスタートだった。
徐々に仕事を覚えていった。
自分なりに勉強もし、会社で保守しているプログラムが如何に望ましくない状況に陥っているかも分かった。そして、それでも動いてしまう事も知った。
上司は厳しかったが、仕事は楽しかった。自分の意見を聞かれるので、何かしら答える必要があり、上司が納得するような、技術者としての意見を考えて述べる。これも難しかったが、意見を聞かれる事が嬉しかった。
アプリケーションサーバの保守を主に担当するようになった。
自分は色々なプログラムを組んだ。
仕事で初めてマルチスレッドのプログラムを書いたのがC社であった。マルチスレッドのプログラムを書く事ができるのか、かなり不安だったが、書く事ができた。しかし、やり過ぎてはいけない事もこの時に知った。今では相当単純な動作でない限り、マルチスレッドプログラミングはやるべきでないと思っている。
朝、このプログラムを起動すると、十数本のスレッドが起動し、各スレッドがそれぞれWake On Lanの信号を異なるパソコンに向かって送る。この信号を受けたパソコンは、電源が入って起動する。
プログラムを走らせると、一斉にパソコンが立ち上がっていく様が壮観であった。
Webページを表示した後、そのページにあるボタンを押すなどして、もう一度同じページに対してHTTPリクエストがかかる事をポストバックと言う。これが最初不思議な気がした。同じページを更新したいなら、サーバ側からデータを送ればいい、と思ったのだ。現在、確かにWebSocketというサーバからクライアントにPushする技術がある。しかし、基本的には、クライアント側から取りにいかないと、情報を返さないのがHTTPの仕組みである。この仕組みに逆らわない方がいい、という事も、しばらく経って分かった。しかし、分かったのは、かなり後になってからで、最初はWebSocketを導入すべきだと思っていた。
C社で働いているとき、Webアプリは生に近い状態で動いていた。所謂Webフレームワークを使っていなかったのだ。だから、統一されたコーディング方法がなく、割とプログラマごとに勝手に書いていたと思う。自分は新しく学んだ「よりベターなコーディング方法」で書くように心掛けていた。
C社で働いているとき、自分は相当プログラマとしての経験を積ませてもらったと思う。C社のおかげで、自分はプログラマになれたのである。しかし、所謂オーバーエンジニアリングをしていたのもまた、C社で働いていた時期だった。会社には悪い事をしたと思う。なぜ会社に悪いかというと、不要なほど作りこむという事は、会社に損害を与えた事になるのである。コストを余計に掛けているのだから。
自分がC社を辞めた理由は単純で、C社の職場が無くなってしまったためである。C社が開発していたシステムの受注が無くなってしまったので、自分はC社から別の会社に派遣され、派遣先の会社で働く事になったのだ。しばらくはそのやり方で仕事を続けていたが、自分のいたかった職場が無くなってしまったのは、どうしようもなかった。C社にいる理由がもはや無いので、止むを得ず、C社を辞す事にした。
社長に辞める旨を告げ、先月会社を辞めた。
日曜日の朝、早めに起きて家を出た。慣れない路線を乗り継ぎ、武蔵境駅で降りる。恰好はスーツで、背負ったリュックサックには、扇子、袱紗、古帛紗、菓子切り、懐紙、袱紗入れ、白い靴下を持っている。家に忘れてしまったネクタイをコンビニで買って、首に締める。武蔵境駅から少し歩くと、曹洞宗の禅院がある。この禅院を右手に見て行き過ぎ、交差点を左に曲がると、左手に若竹といううどん屋がある。更に進むと右手にうどん屋の別邸があり、柿風亭という茶室がある。これはしふうていと読む。第六十回櫻門茶会を開くのはこの柿風亭である。
門も新しいが、中に入ると立派な庭で、良いところを見つけたなと思う。まだ造られて間もないのか、良く手入れが行き届いている。晴れた日で、茶会には良い日である。
玄関を入ったところで白い靴下に履き替え、先生に挨拶。現役生がOB席のある茶室に案内してくれる。
控えの間になっている部屋に荷物を下ろし、合流したOBに挨拶をする。それから何をしたか、余り覚えていないが、I先輩に廊下でお会いして、席に入ったらどうかと勧められ、OB席に入った事は覚えている。なんてことはない、手伝いに来たような顔をして、すぐにOB席の客になってしまったのである。
OB席の菓子は主菓子で、持ってきた菓子切りが役に立った。漉し餡の餡子が甘くて美味しい。紅葉の菓子だったと思う。亭主が茶道口で頭をぶつけて、本当に痛そうだった。この席以外でも、誰か頭をぶつけていたので、機能性からいうとこの部屋は失敗である。しかし、躙り口など極端に背の低い入口を嬉々として造る茶室にそれを言っていいのか、微妙なところではある。
自分が正客をしていたのだが、足が痺れると嫌だし、拝見の作法を忘れてしまったので、主茶碗は拝見に回さずにそのまま返す。それであまり長くやらずに、お道具は飾り置きでと思っていたのだが、棗と茶杓が回ってきてしまった。やり方を忘れてしまっていたので、なんとなくそれらしい風で拝見し、隣に回した。本番の茶席で作法云々を聞くのもおかしい気がしたので、それで良かったと思う。
これは僕の理屈だが、作法を知っている人はさりげなく作法通りにすれば良いのであって、作法を知らない人は自然にすれば良いと思う。目の前に相手がいるときに、作法を気にしている事が伝わったら、一番失礼ではないかと思う。
最初のOB席は、客であったが、二席目はお運びである。もっとも、一席目をやってみて、お運びがいると却って邪魔になる事が分かったので、抹茶を持って茶席に入る事はしない。水屋から茶道口越しに、茶室にいる半東に抹茶を渡すだけである。
抹茶を渡す仕事の前に、まずは下足をやる。下足は、躙り口を潜って茶室に入った客の履き物を茶室の外で揃え、最後に戸を閉める仕事である。
学生の頃はこんな仕事でも緊張して、できればやりたくなかった。何しろ作法が決まっていて、その通りにやらなければならないのだ。今回は流石に緊張はしなかったが、それは単に「大した事ではない」と考えるようになったためで、別に立派な事ではないだろう。
下足が終わったら、水屋の手伝いである。しかし、どう見ても水屋に人が多過ぎる。元々の水屋担当二人に、お運びだった二人を足して、四人が水屋にいる。これでは水屋が狭くなるので、一人ぐらいは外に出た方が良さそうである。
それでもしばらく水屋を手伝い、茶席が終わる頃を見計らって、外に出る。躙り口の戸を開けて、客の履き物を出さねばならない。
水屋から茶室の中の様子に耳を澄ませていて、もうそろそろ終わりという時に外に出たのだが、なかなか席が終わらない。話が盛り上がっているらしい。躙り口の傍らに窓があって、茶室の中から立っている自分の姿が見えるように思う。それで少し腰を落とし、隠れる事にした。待っている下足番の姿が茶室の中から見えたら「さっさと帰れ」と言っているように感じるかもしれないからだ。
ようやく席が終わって、茶席を出る客の履き物を出す。これで一先ず役目は終わった。
三席目のOB席もお運びの役だったが、OBで来ていたSさんに下足は任せて、自分は抹茶を水屋から茶道口に出す役だけをやる。
こうして振り返ってみると、自分がした仕事は客の履き物を揃えたり、抹茶を水屋から茶道口に渡したりしただけである。
さて、大して役には立てなかったが、一応役目は果たしたので、学生の席に入る。学生の席は三席あって、小間と広間、それから立礼席である。立礼席というのは、椅子の席である。この立礼席に入った。
亭主は哲学科の学生であった。自分は正客である。正客というのは、亭主とやり取りをする、言わば客のトップだから、皆やりたがらない。自分は断るのが面倒だから、勧められるとそのまま受ける。それでOB席に引き続き、この茶席でも正客になっていた。抹茶は少しぬるく点っていた。菓子は秋をテーマにした菓子で、三種類あった。半東からどれかおふたつどうぞと言われて、紅葉ともうひとつ、確か黄色い菓子を取ったと思う。グミのような干菓子である。ちょっと記憶が定かでないが、紅葉を掃き集める、熊手か箒をモチーフにした菓子があったような気がする。あ、面白い菓子があると思ったので覚えている。
軸は「紅葉満山川」で、茶道研究会のメンバーにはお馴染みのもの。自分の研究会のところの茶席だから、新しいお道具が見られるという事はない。これはしょうがない。代わりに、「お道具が懐かしい」という別のメリットがある。
立礼席が終わって、帰ろうかどうしようか迷った。妻には三時頃終わると伝えていて、そろそろ三時に近づいている。しかし、I先輩に勧めてもらって、やっぱり席に入る事にした。広間の席である。前の席が終わらないので、待合で待つ。
待合の障子が開いていて、縁側に続いている。
縁側から庭に降り、何枚か写真を撮る。今書いている、このブログ記事に載せたいと思ったのだ。もう一つの理由は、立派な庭だったからである。
風がある日で、庭を歩くと枯れ葉が舞い落ちてきた。柿風亭という名だが、柿の木はないらしい。柿の木を茶庭に配するのは、ちょっと出来かねるからだろう。
待合に戻って待っていると、広間の客が呼ばれて、この日最後の茶席に入った。
華やかな棗で、それが一番記憶に残っている。漆の黒地に金色で紅葉の模様が描かれていたように思う。道具は飛び青磁の皆具だったはずである。香合は松ぼっくりの形だったかな。どの道具がどの席に出てきたか、定かでないが、ともかく秋という事で統一されていた。
足が痺れて、段々抹茶どころではなくなった。じっと足の痺れを我慢していると席が終わった。流石に帰る事としよう。
OB席の控えの間に戻ると、卒業したばかりのOBが道具を片付けていた。お任せで悪いが、手を出しても分からないので、そのまま上がる事にする。
M先輩やT先輩と一緒に上がって、武蔵境駅まで歩く。M先輩とは新宿駅までご一緒して、家に着いた頃には五時を優に過ぎていた。
家に着いたら、妻の機嫌をなだめるのが、最初の仕事である。要は謝るのである。お金を払って抹茶を運んで、何の得になるのかと聞かれて、うまく答えられない。
今回参加してみて、もちろん楽しかったけれども、OBはお金だけ出して、客になるぐらいがせいぜいで、あまり席を設けたりしなくて良いのではないか、少なくとも、自分はもう出なくていいかな、と思ってしまった。
学生が中心の茶会が自然だし、卒業しても茶道を学び続けているS君やT君は、後輩に手本を見せるという意義があるけれども、僕は卒業してから一度もお茶を点てていない訳で、後輩に見せられるものも、教えられるものもない。
邪魔をしに行ったわけではないし、請われて行ったのだから別に良い訳だが、遠くから応援した方が良い、というのが自分の結論になってしまった。
自分は学生の茶会からはほどほどの距離を置き、自分で勝手に抹茶を楽しみたいと思う。それでまた櫻門茶会が開かれたら、お祝いを持って、ちょっと客になる、忙しかったら、欠席しても失礼でない、ほとんどのOBは来ないのだから。
来週に母校の茶会がある。
櫻門茶会は今年で六十回目だそうで、記念にOB席というものが設けられている。
OB席というのは、茶道研究会のOBが亭主や半東、お運びを担当する茶席である。
自分も茶道研究会のOBの一人であり、OB席ではお運びを担当する事になっている。
しかし、もうずっと昔に稽古しただけなので、お運びの作法をすっかり忘れてしまっている。うかうかしているうちに、公式の稽古日に行きそびれてしまって、どうしようかと思っていたら、茶道研究会の先輩のMさんからメールが来た。
今度稽古があるから、来ないかというのである。
渡りに船とはこのこと、是非行きたいと返事をして、稽古に行くことにした。
懐かしい文理学部の校舎を訪ねて、サークル棟の茶華道室で稽古に臨んだ。
現役生がたくさんいて、みんな知らない人である。
先生は自分の少し上の年代のI先輩が務めている。
茶碗の置く場所や、足の運び、古帛紗の扱い方など、なかなか細かい。
一通り稽古をして、大体のところを把握する。正直、半東や亭主を引き受けなくて良かった。付け焼き刃の稽古で、とても覚え切れるものではない。
午後二時頃から稽古を始めたのだが、午後五時には帰る事にした。学生の時もそうだったのだが、茶道の稽古では、客になっているときがあり、この時に出される抹茶や菓子は実際に食べる。だから、帰るときまでには、抹茶と菓子を食べていた。食べた菓子には、自分が稽古代の代わりに持ってきた菓子も含まれる。
挨拶をして上がると、みんなで集まってお茶を点て、客になったり亭主になったりしながら、抹茶や菓子を楽しんでいた頃の気持ちに戻っていた。
なんて平和な楽しみだろうか。
なんと礼儀正しく、気持ちのいい世界だろうか。
そんな愉快な気持ちのまま、一緒に上がったM先輩に誘われて、飲みに行く事になった。まだ五時過ぎなので、最初に訪れた店は閉まっていた。次に訪れた店は満席だった。三軒目の店は、開いていて、入る事ができた。
店は二階にあって、奥のテーブル席に二人で座る。
M先輩は学校の先生をしている。忙しいらしい。色々と話すうち、話が歴史の事になった。
「僕の妻は、青島市の出身なのです」
「青島市というと、チンタオか」
「そうです」
「あそこはね、昔ドイツの租借地だったんだ」
「え、よくご存じですね」
そんな事から始まって、江戸時代の政治構造や、井伊直弼の話、これは一会集の筆者だから茶道にも関係するが、今回は開国の方の話で、第二次大戦の敗北の件も話したし、色々雑多な話が出た。
M先輩は酒を勧めず、好きにしたら良いよというので、烏龍茶をまず飲み、次にサイダーを飲んだ。肴もあまり頼まずに、しらすおろし、オムレツ、じゃがバターといったところ。
店を出るときに会計をしたら、なんと二人で三千円に達しなかった。
こんな飲み方もあるか、と感心した。