野狐消暇録

所感を記す

台風が来た

朝からずっと雨が降っている。台風が近付いているそうである。日曜日で、自分はずっと部屋に閉じ籠り、ほとんど外に出なかった。

起きたのは十時過ぎで、もう昼が近かった。ビニール傘を差して駅前のATMまで行き、いくらか金を下ろした。これに先日母に貰った金を足すと丁度ひと月分の家賃になる。

一階に住む大家さんを訪ねた。門の脇のインターホンを鳴らして、家賃を納めに来た旨を告げる。はーい、といつもの大家さんの声が聞こえたが、如何せん、門の扉に錠が掛かっていて入れない。仕方がないので、手を扉の裏側に回して錠を外し、中に入って、玄関で大家さんと会う。大家さんはもう随分御歳を召されている。こんな台風の日には誰も来ないだろうと思って、門の扉に錠を掛けてしまったと言って謝られたが、とんでもない事である。こんな日に尋ねるなんて、非常識な事をしてしまった。

家賃を納めて二階の自室に帰る。妻はコンビニのバイトで午後まで帰って来ない。何をするともなく過ごしていると、妻が帰ってきた。それでやっぱりどこへも行かずに家に閉じ籠っていた。時々、ベランダに面した窓を開けて、外の様子を伺う。雨は止んだり、降ったりを繰り返しながら、いつまでも止まない。風もそれほどないようである。

夜の帳が降りて、自分は茶を飲みたくなった。

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沸騰する少し手前の熱さの湯を注ぎ、抹茶を点てる。

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菓子は、フジパンのメープルアーモンドケーキである。

湯が少しぬるかったのか、茶を飲み終わったあと、固まった抹茶が椀の底に残った。湯をもう一度注いで、茶筅で溶くと、ほとんど白湯のような薄い抹茶が点つ。

最近気づいたのだが、抹茶の旨さと思っているものの半分程度は、温かい湯を飲む旨さである。なんだったら、抹茶なしの白湯を飲んでも、美味しい。特にこのように寒い日は美味しいに決まっている。

菓子も一緒に食べるから、やっぱり抹茶の方が良さそうだが、そんな事にも気付いてしまった。

 

両親に抹茶を振る舞う

まだ秋のはずだけど、二三日、ダウンが必要な寒い日が続いた。前々から、実家に余っている毛布や掛け布団を送ってくれる事になっていたのだが、いよいよ寒くなってきたから、実家に電話してみた。すると、車で持ってきてくれると言う。有り難い。お礼を言って、そうしてもらう事にした。

昼前に両親は車でやってきた。毛布と掛け布団を部屋に運んでから、一緒に昼を食べに行く。近所にある美味しい料理屋さんというと、唐華とアムラパーリーが思い浮かぶが、今回行くのはアムラパーリーの方だ。これはインドカレー屋さんである。

インドカレーとナンを食べて、もう一度部屋に帰ってくる。

窓側の和室で色々と話をしているとき、奥さんが

「お抹茶を入れようか」

と言って、抹茶を振る舞うことになった。

諸々の作法は省略して、抹茶を茶筅で点てて、すぐに飲んでもらった。

ただ、一人で一杯はちょっと多いようだ。一杯を両親と自分で回し飲みする感じになった。

それで奥さんはちょっと考えたらしい。

緑茶を入れるための急須を持ち出して、ここに抹茶を入れて点てろと言う。

それはやりかねると思ったが、少し考えて、茶道で使う茶碗で先に抹茶を点て、点てた抹茶を急須に移した。

奥さんはその急須で緑茶向けの小さな茶碗に抹茶を注ぎ、二杯目を両親に振る舞った。

なるほど、そういう事もできるか。自分は抹茶は大きな茶碗とばかり考えていたが、拘らなければ、色々やり方も出てくる。

所謂茶道になるかは別にして、こうやって新しいやり方を見つけるのは、愉しい事である。

半月茶会と、発見されたイニシエの道具

段々自分がやる事を奥さんが把握してきた。

それで、ある日帰ると、奥さんが抹茶を飲む準備を整えてくれた。

「お茶を飲みたいでしょう」

と彼女は言った。

 

特にそんな気はなかったが、言われたらやろうかという気になる。

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早速並んだ茶の道具


二人で道具を並べる。

菓子は彼女が貰ってきたもの。

丸い菓子は半分自分で食べたそうで、もう半分を僕のために持ち帰ってくれたそうだ。

貰った菓子を全部食べず、旦那さんのために半分持ち帰る。

なんと心温まる事だろうか。

彼女の気持ちは本当に嬉しい事だ。

それで、半分の丸い菓子にあやかって、この茶会を「半月茶会」と名付けた。

菓子を半月に見立てたのである。

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右が半月に見立てた菓子。最初は"満月"だった。


このとき飲んだ抹茶はぬるくて、正直飲めたものではなかったが、彼女の心が温かかったから、釣り合いは取れているのである。

 

さて、半月茶会の数日後、自分は土曜日で休日だった。

柄にもなく掃除などをしていて、ある道具を見つけた。

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茶人にはお馴染みのアレである。

これはびっくり。

どこかにある気はしていたが、茶入の棗と蓋置である。

しかし、棗はともかく、蓋置まである。

蓋置があるという事は、柄杓もあるかもしれない。

引っ越しのとき、柄杓を布か何かに包んだような気もするが。

今後、お道具がちょっとづつ揃っていく事になったら、ちょっと楽しみである。

中秋節

中秋の名月」というやつを、僕はすっかり忘れていたが、奥さんは覚えていた。というより、中国人にはまだ現役の年中行事として、中秋節というものがあるようだ。

それでこんなお菓子を、奥さんは貰ってきた。バイト先の同僚の台湾土産だそうである。

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こんな時には、お抹茶だ。

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奥さんがお菓子を盛り付けてくれた。

点てる。

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ちょっと熱くても、いいかな、と思えてきた。

クリーミーに点てて、熱かったら、ちょっとづつ飲めばいいのだ。

 

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買ってきたお菓子は割るとこんな感じ

奥さんが貰ってきたお菓子は、食べる前から「あんこかな」とは思っていたのだが、やっぱり甘い。

次に食べたチョコレートバーの短いやつも、そう思っていたのは自分だけで、沖縄のお菓子だった。

やっぱり甘い。

なんでこんな甘いんだろう。

嫌いじゃないけどさ。

アーモンドの煎餅が、お口にはちょうど良かった。

 

今日のお茶 (2017-10-01)

会記

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薄めに点てる

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美味しい。

 

茶道の精神をもっと生活に取り入れたい。

貧乏でも楽しめるのが茶道のいい所だ。

自分にぴったりだと思う。

茶道で「侘び」と云う。

侘びの語源は「侘しい」で、物がない事を指すそうである。

これは自分の事ではないだろうか。

 

何は無くとも楽しめるのが茶道であり、僕にはとても素敵な慰安に感じられる。

夜の茶

自分が住んでいるのは、アパートの二階なのであるが、ベランダから見下ろすと、小道の脇に木が生えている。この木が揺れると、外には風が吹いているな、と思うのであるが、今日見下ろすと、繁っている葉が幾枚か、黄色く色付いている。そういえば、網戸を通して流れてくる風もやや肌寒い。

 茶を点てようかどうしようか、とつおいつ考えるうち、日が暮れて、妻が仕事から帰ってきた。手にはスーパーの袋を下げている。夕食の材料である。次に人に貰った菓子を妻がバックから取り出したので、茶を点てるきっかけができた。この菓子で茶を飲もう。

 僕の茶はいつも独服である。客はない。妻は茶に興味がないし、茶会に出掛ける機会は今のところ、年に一度の櫻門茶会だけだから、仕方がない。

しかし、興味がないとは言い条、妻も協力してくれる。今日も湯を沸かしていたら、そろそろ火を止めないと、沸騰してしまうと教えてくれた。そうだそうだとコンロの火を止めたら、熱過ぎて飲めないこともなく、ぬる過ぎて抹茶が溶けない事もない、ちょうど良い湯加減の湯が沸いた。ありがたい事である。

 さて、今日の会記は以下である。

会記

 道具と菓子を、いつも抹茶を飲む窓際の畳の上に置く。

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 湯が冷めると嫌だから、急いで茶を点てる。

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わりと綺麗に点てれた。

茶を飲んでいると、気持ちが落ち着いてくる。坐禅をしているときは全然落ち着かないのに、茶を飲むと落ち着く。そんなものなのだろうか。坐禅は心が落ち着くはずという頭があるので、どうも納得できない。

 妻が貰ってきたセブンイレブンのロールケーキを食べると、ますます落ち着いてきて、普段聞こえない鳴き声が聞こえてきた。

 

キリギリス鳴いて

夜風が澄み渡る

『ほんとうの憲法 戦後憲法学批判』(篠田英朗)を読んだ。

全部理解できた訳ではないが、積年の謎が解けた所がある。

この本で解けた疑問は以下の通り。

Q. 憲法論議の前提が不自然なのはなぜか?

憲法をめぐる議論が、なぜ

  • どういう憲法が望ましいか

という論点を離れて

  • 憲法を守るべきである
  • 憲法を守らないと戦争が起こる

という話になっているのか。

この点は、高校生のときからずっと疑問であった。

何か、非常に不自然な形で議論が行われている。

なぜ、「何がベストか」を一から考えないのだろう。

なぜ、

憲法という平和の礎 V.S. それを壊そうとする悪い支配者」

という構図があるのだろう。

A. 政治上の争いの中で憲法が議論されてきたため

本の中には詳述してあるが、歴史的な経緯とでもいうべきものなので、一言では説明しづらい。しかし思い切ってまとめると、学問的な理由ではなく、政治的な理由でそうなったのである。政治上の争いの中で、憲法を巡る議論が続けられてきたので、純粋に憲法がどうあるべきかという議論はどこかにいってしまったのである。

Q. なぜ現在の日本政府は、国際社会に協調的なのか?

なぜ、平和主義であるはずの左翼陣営が、集団的自衛権を否定し、単独防衛を主張し、国際社会で孤立的な方向を取るのに対して、より好戦的であるはずの自民党が集団安全保障を唱え、国連を中心とした安全保障体制に協調的なのか?

A. 第二次大戦で負けたとき、アメリカが日本をそのように作り変えたから

身も蓋もない話だが、それだけに説得力がある。

第二次大戦前に既に出発していた国際連盟で、戦争行為が非合法化された、にも関わらず、日本は侵略行為を繰り返し、国際秩序を破壊したので、戦後アメリカが、日本を国際社会に協調的な国に作り変えたのである。

日本国憲法もこの文脈にある。

だから、憲法の前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とあるのである。

これは国際協調路線を憲法に書き込んでいるのである。

Q. なぜ完全な武力の放棄を憲法は命じているのか

到底不可能であるにも関わらず、なぜ憲法にはそれが書かれているのか。

できない事であれば、「将来的な目的」として武力の放棄を書き、「現状としては軍隊を保持する」とでもすればいいのに、なぜそうしないのか?

なぜ、理想と現実を繋ぐ努力を一切放棄しているのか。

また、言論の場に、自分のような考えがまるで出てこないのはなぜなのか?

A. もともと、日本国憲法は「国の権利としての戦争」を放棄すると宣言しているだけであり、完全な武力の不保持を宣言している訳ではない。

つまり、憲法によって軍隊が禁じられているという誤った解釈をしているために、憲法が無理な要求をしているように見えているだけで、実際はそうではないのである。

憲法九条が無くても、そもそも国連に加盟している国には国権の発動としての戦争が禁じられているので、日本もその流れの中にあり、戦争はできないのである。

 

自分なりの理解のまとめ

国際社会が第二次世界大戦勝利国を中心に形成される中で、アメリカ主導で日本の平和国家化が進められ、現在の日本ができてきた。

冷戦期を通し、表向きの九条平和主義、裏の日米安保という形式がとられ、市民保守主義が興隆し、政治は生活の背景に後退した。

冷戦終結と共に、国際環境が変化し、日本に求められる役割も変わった。

生活保守主義と九条平和主義は、裏の日米安保と表裏一体だったため、実際政治の変化と共に、「物語」としての役割を終えた。

日本の憲法論議は、改めて国際社会の文脈の中で、本来の学問的な中立性、客観性を取り戻すべきである。