会記
薄めに点てる
美味しい。
茶道の精神をもっと生活に取り入れたい。
貧乏でも楽しめるのが茶道のいい所だ。
自分にぴったりだと思う。
茶道で「侘び」と云う。
侘びの語源は「侘しい」で、物がない事を指すそうである。
これは自分の事ではないだろうか。
何は無くとも楽しめるのが茶道であり、僕にはとても素敵な慰安に感じられる。
自分が住んでいるのは、アパートの二階なのであるが、ベランダから見下ろすと、小道の脇に木が生えている。この木が揺れると、外には風が吹いているな、と思うのであるが、今日見下ろすと、繁っている葉が幾枚か、黄色く色付いている。そういえば、網戸を通して流れてくる風もやや肌寒い。
茶を点てようかどうしようか、とつおいつ考えるうち、日が暮れて、妻が仕事から帰ってきた。手にはスーパーの袋を下げている。夕食の材料である。次に人に貰った菓子を妻がバックから取り出したので、茶を点てるきっかけができた。この菓子で茶を飲もう。
僕の茶はいつも独服である。客はない。妻は茶に興味がないし、茶会に出掛ける機会は今のところ、年に一度の櫻門茶会だけだから、仕方がない。
しかし、興味がないとは言い条、妻も協力してくれる。今日も湯を沸かしていたら、そろそろ火を止めないと、沸騰してしまうと教えてくれた。そうだそうだとコンロの火を止めたら、熱過ぎて飲めないこともなく、ぬる過ぎて抹茶が溶けない事もない、ちょうど良い湯加減の湯が沸いた。ありがたい事である。
さて、今日の会記は以下である。
道具と菓子を、いつも抹茶を飲む窓際の畳の上に置く。
湯が冷めると嫌だから、急いで茶を点てる。
わりと綺麗に点てれた。
茶を飲んでいると、気持ちが落ち着いてくる。坐禅をしているときは全然落ち着かないのに、茶を飲むと落ち着く。そんなものなのだろうか。坐禅は心が落ち着くはずという頭があるので、どうも納得できない。
妻が貰ってきたセブンイレブンのロールケーキを食べると、ますます落ち着いてきて、普段聞こえない鳴き声が聞こえてきた。
キリギリス鳴いて
夜風が澄み渡る
全部理解できた訳ではないが、積年の謎が解けた所がある。
この本で解けた疑問は以下の通り。
憲法をめぐる議論が、なぜ
という論点を離れて
という話になっているのか。
この点は、高校生のときからずっと疑問であった。
何か、非常に不自然な形で議論が行われている。
なぜ、「何がベストか」を一から考えないのだろう。
なぜ、
「憲法という平和の礎 V.S. それを壊そうとする悪い支配者」
という構図があるのだろう。
本の中には詳述してあるが、歴史的な経緯とでもいうべきものなので、一言では説明しづらい。しかし思い切ってまとめると、学問的な理由ではなく、政治的な理由でそうなったのである。政治上の争いの中で、憲法を巡る議論が続けられてきたので、純粋に憲法がどうあるべきかという議論はどこかにいってしまったのである。
なぜ、平和主義であるはずの左翼陣営が、集団的自衛権を否定し、単独防衛を主張し、国際社会で孤立的な方向を取るのに対して、より好戦的であるはずの自民党が集団安全保障を唱え、国連を中心とした安全保障体制に協調的なのか?
身も蓋もない話だが、それだけに説得力がある。
第二次大戦前に既に出発していた国際連盟で、戦争行為が非合法化された、にも関わらず、日本は侵略行為を繰り返し、国際秩序を破壊したので、戦後アメリカが、日本を国際社会に協調的な国に作り変えたのである。
日本国憲法もこの文脈にある。
だから、憲法の前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とあるのである。
これは国際協調路線を憲法に書き込んでいるのである。
到底不可能であるにも関わらず、なぜ憲法にはそれが書かれているのか。
できない事であれば、「将来的な目的」として武力の放棄を書き、「現状としては軍隊を保持する」とでもすればいいのに、なぜそうしないのか?
なぜ、理想と現実を繋ぐ努力を一切放棄しているのか。
また、言論の場に、自分のような考えがまるで出てこないのはなぜなのか?
つまり、憲法によって軍隊が禁じられているという誤った解釈をしているために、憲法が無理な要求をしているように見えているだけで、実際はそうではないのである。
憲法九条が無くても、そもそも国連に加盟している国には国権の発動としての戦争が禁じられているので、日本もその流れの中にあり、戦争はできないのである。
国際社会が第二次世界大戦の勝利国を中心に形成される中で、アメリカ主導で日本の平和国家化が進められ、現在の日本ができてきた。
冷戦期を通し、表向きの九条平和主義、裏の日米安保という形式がとられ、市民保守主義が興隆し、政治は生活の背景に後退した。
冷戦終結と共に、国際環境が変化し、日本に求められる役割も変わった。
集中し切れないまま坐禅を終えた後、抹茶を点ててみた。
湯がぬる過ぎて、抹茶がなかなか溶けない。
湯加減については、温度計か何かで、温度を測ってもいいかもしれない。最適な温度を目指すには、勘に頼るべきでないと思う。
菓子は、セブンイレブンで売っている「濃厚ティラミス」にした。
量は半分ほどでちょうどいい。全部食べると、茶会というよりはカフェみたいになると思い、途中で残し、残りは冷蔵庫にしまった。
それで思ったのだが、茶 "道" とはいえ、やりかた次第では、必ずしも精神性が高くはならない。ただのお茶の時間になってしまう可能性もある。
現に自分の場合、そうなってきている。
温かい抹茶を飲み、抹茶を掬ったスプーンを用いてティラミスを食べていると、本当にまったりした気持ちになる。
唯一茶道らしかったのは、茶筌で抹茶を点てるシーンぐらいだ。
坐禅の後は茶道に限るでござる。
そんな武士的な気持ちになれた今日の一コマだった。
冷蔵庫にお抹茶があるから、今日もお茶を点ててみた。
薬缶でお湯が沸いているから、念のため鍋つかみも用意して、火傷しないようにする。
前回は主茶碗にリラックマを使って、碗の薄さに手が熱かったが、今回はちゃんとした茶道具の茶碗だから、平気だろうと思う。
お茶を点ててみる。
割と濃く点てたつもりだ。
飲もうとしたが、やっぱりお碗が熱い。
どうにもならないので、水を注いで湯を冷ます。
お茶を点てる時のお湯は沸きたてでは駄目だ。
先にお菓子を食べてみる。
一口食べて、不味いと思った。しょうがないので、最後まで食べたが、どら焼き部分はなかなか旨い。
考えてみると、自分は喫茶店でも、モンブランを頼まない。元々あまり、好きではない。モンブランは栗のケーキだが、これを食べるくらいなら、栗をそのまま食べたい。甘く煮た栗は割合食べられるけれども。
まぁ、コンビニのお菓子だから、しょうがない。
お抹茶も飲もう。
一口飲んだら、こっちは本当に美味しい。体にお茶の温かさが染み渡る。
やっぱりお抹茶は美味しい。
週末にまた点てよう。
株式会社ビジネスバンク主催のrubyイベントに参加した。
rubyの生みの親、まつもとゆきひろさんの講演が聞けたので、忘れないようにここにメモする。
技術の未来を考えるとき、2つの可能性がある。
1つは過去から現在へ続いてきた技術の流れがそのまま続いていくこと。
もう1つは、革新的な変化が起こり、新しい技術が使われるようになること。
後者の例は、量子コンピュータや、汎用人工知能が考えられるが、予測ができず、たまにしか起きない。
そこで前者の、現在の流れが続いた場合を考えてみる。
Webアプリを作る際に、クライアントサイドに多くの仕事をさせる流れがある。
クライアントのJavaScriptでほとんどの仕事をさせ、サーバサイドはWeb APIでJSONを返すだけにする。
これはサーバサイドでページの整形までやり、クライアントではブラウザがレンダリングするだけという設計とは異なるアプローチである。
マイクロサービス的であるとも言える。
これもWebの話。サーバサイドとクライアントサイドで同じ言語を使う。
一番分かりやすいのが、クライアントでJavaScriptを使い、サーバサイドもNodeを使って書くこと。
Rubyでもやろうとすればできる。Opalというruby処理系があって、Rubyでクライアントサイドを書き、JavaScriptに変換して使える。
rubyは確かに遅いが、事業アプリのボトルネックはネットワークかDBがほとんどであり、プログラミング言語が問題になることはまずない。DBならクエリの書き方が悪いとかである。
※自分の感想
確かに、事業システムの性能問題は、トランザクションデータが大きくなることによって発生することが多い。自分の現在保守している顧客管理システムもそうだ。
事業システムのデータ量増大の問題は、マーチン・ファウラーが『アーキテクチャ・パターン』の前書きで書いていて、読んだ事がある。
しかし、自分が巨大なシステムでrubyを使う事を不安視してしまう理由は、性能ではない。rubyは静的型チェックが効かない。コンパイル時のチェックがないのが不安だ。
今思うと、質疑応答の時間が長く取ってあったから、質問してみても良かった。
これはそのまんまの話。
プロトタイプを作ったり、試行錯誤するフェーズが一番得意。
何を作るか分かっていて、ウォーターフォールで作っていくような場面ではなく、作ってみて動作を確認し、またちょっといじってみるといった場面が一番向いている。
昔はrubyで最初作ってみて、本格的に作るとなったら別の言語でというやり方が多かったが、今は性能の進歩で、プロダクションもそのままrubyで作って問題ない事が多くなっている。
mrubyを作った時には、もっと組み込みシステムで使えるメモリが増えると見込んでいたが、そんなに増えなかった。それで、rubyを載せてもらえる状態にならなかった。
視野が広い人だな、と思った。
自分は日頃Webアプリを作っていて、本当にそこしか知らない。
組み込みとか、CPUとか何も知らないでやっている。
しかし、そういうマシン側にも目を配っていて、話としてはあまり出なかったけど、ちゃんと知っている感じだった。
コンピュータが人に仕えるべきで、人がなるべく楽をできるように考えてrubyを作っているそうで、元々プログラミング言語というのがそういうものだから、その通りにやっているという事なのだが、本人の口から聞くと、ちょっと感動する。
お腹が途中で空いてしまって、軽食のピザをかなり僕が食べてしまった。
テーブルで相席になった方、ごめんなさい。