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野狐消暇録

所感を記す

インド料理店

カーディガンを着た男が、新聞に目を落としている。
眼鏡を掛けている。
珈琲のように黒い肌に丸い目。

紅の布を羽織った奥さんが
向かいの席にゆったりと腰掛け
目を伏せている。

白いイヤホンが奥さんの耳まで伸びている。

奥まった端にある
小さなテーブルに
二人は座っている

二人分の食事が載りそうにない
小さなテーブルを囲んで
それぞれの時間を過ごしている

風呂のない部屋

 夫婦二人で、小さな部屋に住んでいる。自分が一人で住んでいた部屋である。そこに妻が来た。

 箪笥があるが、一人分の服しか入らない。溢れた服は、部屋の隅に積み上がっている。

 洗濯機の上に、つっかえ棒を渡して、部屋の中に作った物干しがある。自分一人ならちょうど足りたが、今は洗った服を干すと、多過ぎて干し切れない。晴れた日に外の物干しに干しても、服と服の間に隙間が出来なくて、いつまでも乾かない。

 夫婦で食事をするのにちょうど良い大きさの机がないので、妻は小さな丸い箱を机代わりにご飯を食べる。箱の上にカレーに使うような器をひとつだけ載せて、そこに麺やおかずを一緒に盛るのである。

 この箱には、「一味追求 不計春秋」と書いてある。漢文書き下しで読めば、「一つの味を追い求めて、春秋を計らず」となるだろう。広告文である。中国に行ったとき、お土産に貰ったお茶の葉が詰めてあった箱なのである。

 部屋に敷いてある布団に自分が寝ていると、妻が歩いて自分の上を跨ぐ。迂回しようがないから、仕方がない。うまく跨いでくれればいいけれど、跨ぐのに失敗すれば、自分が踏まれる。

 

 困った事だと思っていたが、家賃を節約するためと言われると、強く出られない。稼ぎがないのは、自分だからだ。

 一人用の部屋に夫婦で暮らし始めてから、一年少し経った頃、ようやく引っ越しできる事になった。それで二人で暮らすのにちょうど良い部屋を探した。

 これから話すのは、その時に訪れたある部屋である。

 不動産屋さんの車に乗って、その部屋に向かった。夏が終わろうとする頃の事であった。空は曇っていて、車に乗る頃には、雨が降っていた。雨が車の窓ガラスを濡らした。

 車は、商店が並ぶ道をゆっくりと進んだ。車が学校の校庭の脇を通っている時、

「晴れた日に、一度駅から歩いてもいい」

と後部座席で自分は隣の妻に話した。

「そうですね。車で行くと、距離感が掴めないので、一度歩かれるといいですよ」

車を運転している不動産屋さんが同意して言った。

 不動産屋さんは、スーツを着ていた。真っ黒いスーツだ。

 川岸の道を抜けて、人通りのない細い路地に入った。停まった車を降り、遠くから見た時、目当ての物件の入っているアパートは、かなり古い建物である事が分かった。二階建てで、一階に四部屋づつ、合計八部屋ぐらいの大きさだった。建物の横正面に来た。階段がアパートの外にある。一階の中央から二階に向かって、左右に羽を広げるように、二つの階段が作られている。階段は鉄でできており、錆びていた。赤茶けている。錆びた手摺りを握って、昇った。部屋に入った。和室である。中は、それほどひどくない。奥まで行って、窓を開ける。隣のアパートが見える。あっちは外観もそれほどひどくない。

 少し部屋を巡った後、妻が言った。

「お風呂はどこですか」

不動産屋さんは戸惑って言った。

「あれ、お風呂はどこだろう」

風呂がない。不動産屋さんは、

「あれ、もしかして」

と言って、玄関の方へ行った。

 玄関を出た。すると、玄関を出てすぐ左にある、外廊下の突き当たりに風呂があった。共同らしい。戸に手を掛けたが、引いても開かない。力を込めて引いて、やっと少し開いた隙間から、暗い部屋の中に、風呂桶が見えた。

「自分一人なら、耐えられたかもしれないけど、妻もいるので、ちょっと無理だ」

不動産屋さんと妻にそう言った。

「そうですね」

部屋を勧めたはずの不動産屋さんも同意した。それから、不動産屋さんは、独り言のように付け足した。

「風呂が外にある物件は初めて見ました」

僕は、その場の雰囲気を明るくしたいと思って、

「不動産屋さんも初めて見たって」

と言って妻に笑い掛けた。

 妻は笑っていなかった。自分は不動産屋さんと喧嘩をしたくなかった。

 帰りの車に乗ると、自分は話頭を転じた。

「じゃあ、やっぱりさっきの物件がいいな」

そう言って、今の物件の一つ前に見た物件の話を始めた。

 もう、この風呂のない、話の種にしかならない物件について話してもしょうがない。

ただ、こうも思った。面白い部屋を見た、と。あのアパートに住んでいる人も現にいるのだ。何か夢がなければ、自分はあの部屋には住めない、と思った。

「ゆうゆは、あの部屋に住めるの? すごいねぇ」

妻は後でそう言った。ゆうゆというのは、自分の愛称である。そう言われると、やっぱり無理だと思った。本当に、何か強い目標があって、お金を貯めるとか、勉強のために節約して一時的にああいう部屋に住むのでなければ、自分はきっと耐えられない。しかし、慣れてしまえば、平気なんだろうか。現に、今住んでいる小さな部屋も、二人で住むと言われたら、嫌な人も多いだろう。

『指導者とは』(リチャード・ニクソン著)を読んだ。

この本は、アメリカの元大統領ニクソン氏が、自ら知る世界中の指導者について記した本である。原題は、『Leaders』というらしい。

ニクソンは共和党だったから、所謂保守派に属する。取り上げた指導者も然りで、保守派が多いように見受けられる。我が日本からも、吉田茂が指導者として取り上げられている。

全体的に面白く読んだが、大きく感じた事は二つである。

ひとつは、国家の地位が今日と比べて、やや高く感じられる事である。

この本で取り上げられている政治家が活躍するのは、第二次世界大戦から、戦後にかけてである。出てくる政治家は皆、ニクソン大統領が会う事ができた指導者だから、当然そうなる訳である。それで、その頃の政治家と今日の世界の状況を照らし合わせると、第二次大戦直後の世界から今日に至るまでの歴史が、ただ滑らかに、平坦に推移した訳ではない事が感じられる。

現在の世界はテロが横行し、国際社会全体が流動化しているように見受けられる。

かつてのように国家が一つの纏まりとしてあり、国家同士が互いにビリヤードのボールのようにぶつかり合っているのではなく、国際社会全体が大きな池のようになり、国家はさながら、池の上に浮かんでいる細い紐で互いの領域を隔てているといったもので、明瞭なまとまりを失いつつあるようだ。

これは情報化の進展、貿易の発展、人の移動の増加といった事で、様々な物の行き来が激しくなった結果であろう。また、そういう交流の増加に伴って起こる様々な国際問題の解決を求める声が高くなり、国家はかつてに比べて、国際世論を無視しづらくなったのではないかと思う。

この事は、ドゴール大統領が、フランスの偉大さを強調した事を記した文章を読んだとき、特に感じた。国家主義という事が実体を持っていた時代という気がするのである。

また、当時の国連というのも、理想の産物であると同時に、一国際機関に過ぎず、大して重きを置かれていない。要は、交渉のテーブルの一つに過ぎず、このテーブルについて交渉しても良いが、場合によっては無視しても良いという感じである。

国家こそ、政治の現実であり、国際社会なるものは、今日よりも、はるかに観念的なものだったという気がする。

もうひとつは、ニクソンの政治哲学に関するものである。ニクソンは、保守政治家として、革新派の考え方を批判し、フランス革命は挫折に終わったと言っている。その理由として、革新派は破壊は出来たが、建設はできなかったのだ、としている。

同じ文脈で、中国での内戦で負け、台湾に逃れた蒋介石を評し、彼は革命家には珍しく、保守派だったと述べ、蒋は清国の腐敗を批判したが、過去を否定しようとはしなかった、過去の延長線上に未来を築こうとした、としている。

こうした箇所を読むと、この本は、世界中の指導者を取り上げた印象記ではなく、人を語りながら、己の政治哲学を語る、ニクソンの本である事が分かる。

 

------------  ここから先は、メモ風に、感じた事を記してみる。

本を読みながら、ニクソンが嫌われた理由が分かる気がした。ニクソン自身は、あまり人に好かれる所がないのだ。例えば、もしニクソンがテレビの舞台上に立っていたら、人気が出なかっただろう、と思うのだ。

彼は舞台に上がった時、自分が良く見えるように考えて、行動している訳ではない。「見られる者」として演技している訳ではなく、飽くまで関心は現在の世界に対処する事にあるのだ。ニクソンの立場に立ったつもりで、一緒に外の世界を見、どう対処したら良いか考えてみると、ニクソンに同情的にもなれるのではあるが、一切実際上の責任ある立場から離れて、例え仮にでもそうした立場に立って考える事なく、単に外からニクソンを見たら、やたらと自信家の、自分勝手な人物に見えるのではないだろうか?

例えば、車を運転している運転者を助手席から見るような具合である。車の運転について何も考えずに、運転手を見てみると、もしかしたら、そんな具合に見えるかもしれない。

自分で勝手にハンドルを握る。曲がりたいときに曲がるし、同乗者の意見は聞いているような、いないような具合で、言葉をはぐらかす。話しかけるだけでイライラし、「いいから黙っていろ」と言いたげである。なぜその速度か、なぜそこでハンドルを切ったか、説明を求めても、碌な返事が返ってこない...

つまり、ニクソンの立場に立ったつもりにならないと、ニクソンの政治は理解しにくいと思うのである。政治家を単に「上に立って権力を振るっている人」として眺めてしまうと、あまり面白い気はしないし、からかいたくもなるではないか。ニクソンは特に、「偉そう」に見えたのではないかと思う。

 

  • 明治の日本

日本は一度明治の革命で民主化したが、その時参考にしたのはドイツであり、天皇という絶対君主を制度の中に残した、と書いている。第二次世界大戦で大きな失敗をする事になるドイツから、日本は近代化を学んだ事になる。

 

  • 政治信条と職業

インテリは革新派が多く、技術者は保守派が多い、とある。自分は、ソフトウェア・エンジニアである。自分の政治の見方は保守派に属すると思うが、これは職業の影響なのだろうか?

 

  • 軍事的な緊張関係にある国との外交

ソ連の外交について、ソ連の武力と同等の軍事力を保持しつつ、しかも対話を継続する事が大切だ、と述べている。西側は、経済力というカードを持っている、しかも、東側の国の民衆は、西側世界に憧れている、というのである。翻って、今日、ロシアや中国の拡張政策を目の当たりにしたとき、自分が思うのも、やはり同じである。領土問題で、日本は妥協できないだろう、しかし、交渉のテーブルから降りたらその時点で負けなのだ。例え北朝鮮相手でも、いや、北朝鮮のような危険な国であればあるほど、交渉可能な点を粘り強く探さねばならない。人の振り見て我が振り直せ、という諺がある。南シナ海の領土問題で、中国は仲裁裁判所を拒み、そのために自身の正当性を主張する機会を失ってしまった。あれがつまり、席を立った方が負けという事の意味なのだ。

 

  • 戦争の原因

ニクソンは戦争について、独自の見解を述べている。戦争の原因は武器ではない、というのである。政治によって、妥協点を見い出せなかった事が原因であり、武器を戦争の原因だとするのは、原因と結果を見誤っている、と指摘している。自分はこの言葉によって、蒙を開かれた思いがした。

日本は、かつて軍人が政治を行おうとし、第二次世界大戦で失敗した。これはおそらく、軍人が軍人の発想で政治ができると信じたためだろうと、自分は考えていた。

戦後、日本は平和国家を国是とし、歩みを進めた。しかし、日本の平和主義は、実は戦中の軍人と同じ発想になってしまっているのではないか、とニクソンの言葉から思った。なぜなら、武器によって世界を支配できると考える事と、武器を捨てる事で平和が訪れると考える事は、共に政治による問題解決を疎外しているという点で、同じだからである。ニクソンが記しているように、話し合いによる、平和裏の問題解決こそが肝であり、最も重要な事なのである。そうした政治の問題を脇に置いて、武器を取り上げたり、降ろしたりするだけでは、何も変わらないのだ。

 

  • まとめ

この本は、ニクソンが書いた本であり、その点、ニクソン自身の見解を知る事ができる利点がある。しかし、一方から見れば、ニクソンの主観を通して描かれた指導者の肖像画であり、そうした主観が、対象の理解という点で、妨げになっているという事もあるように思う。

だから、今後は、チャーチルならチャーチルの文章を読んでみたいし、指導者ではなく伝記作家が書いた政治家の伝記や、特定の人物を主役に置かない、歴史の本も読んでみたいと思う。そうしたら、きっとこの本の理解が深まるだろうし、また新しい発見もあるだろう。自分は全く政治と関わりのない生活を送っているが、こうした本を読む楽しみは、何物にも代え難い。これからも機会をみて、政治や歴史の本を読みたいと思う。

嵐の前の日の床屋

会社勤めをしている。だから、普段の生活は、規則正しい。仕事は朝の九時十五分に始まり、午後の六時十五分に終わる。仕事の内容は、SEとか、プログラマと呼ばれる仕事で、ソフトウェアを開発している。そんな規則正しい生活をしていたある日の事、社長から、ちょっとした仕事があるので、やらないかと誘われた。それは普段の仕事とは別に、毎週日曜日に会社に出て、仕事をしないかと言うのである。結婚したばかりで、お金がかかるだろうから、バイト感覚でやってくれないか。社長にそう言われて、自分もその気になり、引き受ける事にした。始めてみると、日曜日だけではとても終わらない。最初のうちは週一回日曜日のペースを守ったが、すぐに土曜日も出社するようになり、終わらない分は、自宅からリモート接続で会社のPCに繋ぎ、平日の夜に働くようになった。こうして、休日にやるつもりの事は何もできなくなり、仕事ばかりの日々となった。

髪の毛が伸びてきた。八月の半ばに差し掛かっていて、外は暑く、蒸している日がある。そんな日には、髪の毛が鬱陶しく感じる。もっと短く切って、すっきりしたい。いつもなら、休日に髪の毛を切りに床屋に行くのだが、時間がないのでそれができない。どうしようかと思って思い付いたのが、会社の帰り道に、床屋に行く方法だった。

調べてみると、新橋駅に千円カットの店が見つかった。翌日、会社帰りに新橋駅でその店を訪れた。店は、ゆりかもめ新橋駅の、改札を出て少しの所にあった。千円カットの店は、チケット制である。会計係がいないので、合理的だ。チケットを買ってしばらく待ち、席に座って、髪を切ってもらった。

最初にどう切るかを聞かれた。ここはいつも少し困るが、「短くしてくれ」と言った。考えてみると、皆短くしてもらいに床屋に来ている。他の床屋なら、パーマをかけるとか、何か別の用事があるかもしれないが、ここは千円でカットする事が全ての前提となっている店だ。僕の注文は、「カットしてくれ」と言っているに等しい。

しかし、更に突っ込んで考えてみると、自分の返答は決しておかしなものではない。なぜなら、この返答は「どちらかというと短めに切ってくれ」という要求であり、別に「今と比較して短くしてくれ」という要求ではないからだ。理髪師はその辺りの解釈を間違える事なく、一般的な長さよりも短めに切る事を承諾し、髪を切り出した。

さて、担当になった理髪師は、しばらく黙って髪の毛を切っていたが、ふと、

「明日は台風が来るようですね」

と言った。

自慢になってしまうが、自分は世間話がうまいと思っている。それはあるコツを知っているからだと思う。そのコツは何かというと、相手に話を合わせて、ちょうど漫才師が合いの手を打つように、会話する事である。この時の自分が、まさにそうであった。

「ああ、そうなんですか?」

自分は答えた。

「もうだいぶ近づいているようですよ。九州の方は」

始めて会った人と話すことは天気の事と決まっているし、まして台風が近づいているとすれば、誰しもそんな話がしたくなる。理髪師と散髪中に話す事は珍しくないし、ここまでは何も、不思議ではなかった。

それから少し、台風の話が続いた後、理髪師は話頭を転じた。

「ちょうど、今頃、終戦記念日の頃の事でした」

自分はその言葉で、今日が八月十五日か、その前後である事を知った。

「もう、二十年ぐらい前の事ですがね、私は友達に誘われて、八丈島にある友達の親戚の家に遊びに行ったんです。とても綺麗な海岸と海でした。南の島ですね。たしかフェリーで行ったと思います。その彼の親戚の家の玄関に、コップに入った水が置いてあるんです。玄関の両脇に置いてある。何だろうと思ったんです。何だと思います?」

「塩が盛ってあるという事ではなくてですか。魔除けか何かで、玄関の両脇に塩を盛る習慣の事は知っていますが」

「コップです。それで、その家でお世話になったおばさんに尋ねると、幽霊が出ると言うんです」

「え、幽霊ですか」

「はい。なぜというと、第二次世界大戦で、八丈島も戦場になり、多くの兵士が亡くなったのですが、兵士の中には、まだ自分が死んだ事に気付かずに、戦い続けている者がいるそうで」

「横井軍曹みたいですね」

この辺の相槌が、自分が先に述べた所の、世間話のコツである。

「はい。それで、その日、家に泊めてもらったのですけれど、見ちゃったんです」

「というと」

「友達とは別の部屋に寝たのですが、その部屋が広い。広い部屋の片側が庭に面していて、ガラスの戸が並んでいました。そこのカーテンが開けてあったんです。私は横になっていましたが、あまり寝付けず、ふと庭の方を見ると、誰かが立っていました。庭の外にです。不思議に思い、声を掛けました。しかし、返事がない。返事をせずに、ずっと立っているのです。事、此処に至って、ようやく事態を飲み込んだ私は、布団を頭からかぶりました。そして、知りもしないお経を滅茶苦茶に唱えたのです。二十分ぐらい経ったでしょうか。布団をのけて頭を出してみると、庭の外の男はいなくなっていました。それでほっとしまして、翌日おばさんに話すと『見ちゃいましたか』と言われて、やっぱりそれが、八丈島で無念のうちに亡くなった、日本兵の幽霊だと分かりました。翌日の晩は、友達と同じ部屋に寝まして、今度は何事も起きずに朝を迎えました。そんな事がありましたよ」

自分は幽霊よりも、そんな面白い事を話す、この理髪師が興味深かった。

「それは怖いですね」

世間話がお上手な自分は、適当な相槌を打った。その相槌に乗せられたか、或いは、やってくるお客さんみんなに話しているのか、理髪師は話し続けた。

八丈島も戦場でしたが、硫黄島もそうでした。あの辺りはみな戦場になりました」

「ああ、そうでしょう。『硫黄島からの手紙』という映画にもなりましたし、話には聞いています」

「硫黄島の戦いには、叔父も参加していました。叔父は終戦後、しばらく経ってから長崎に帰りましたが、その時は家族みんな驚いたそうです。てっきり亡くなったと信じていたので」

「ああそうですか」

硫黄島の戦いを取り上げたドキュメンタリーをテレビで見た事がある。日本兵の生還率は10%とかなんとか、正確な数字は忘れたが、とても低かったはずだ。この理髪師の叔父は、その戦いを生きて帰ったというのだろうか?

「叔父は、こっちの方で」

と理髪師は二人の目の前にある鏡に向かい、自分の頬に指を当てて上から下へ、指を滑らして見せた。

 「ああ、やくざの」

「そうなんです。それで、戦場でも、上官を脅していたんです。いつか戦争が終わって内地に帰ったら、お前をひどい目にあわすぞ。俺にはそれができる。そう言っていたから、虐められなかった。それで、硫黄島の戦いでも、穴の中で追いつめられると、皆自殺する。叔父も拳銃を渡されて、死ぬように言われたんですが、元々やくざだから、国のために死ぬ気が全くない」

「ははあ、天皇陛下万歳、という人ではなかった」

「そうなんです。それで自殺しないで、却って、上官に、死にたいなら死ねと。それで上官は自殺したのですが、叔父は死なずにいた。しばらくすると、アメリカ兵がやってきたので、降伏したのです」

「なるほど」

「アメリカの捕虜になったのです。それで、日本に帰るのが遅れた。まあ帰ってきたときは、みんな驚いたんですが、でも、いい人でしたよ、叔父は」

「そうですか」

「私も、子供の頃、可愛がってもらいました。ある日、叔父が子供の私を見て、『お前はやくざに向いている、学校を出たら、うちに来い』なんて言って。母がやめてくれと言って叔父を止めましたが、あれがなかったら、私は床屋なんかしていなかったかもしれない」

「そうすると、お母さんのお蔭ですね」

自分は笑って言った。

「そうなんです。ただ、叔父は私には優しかったのでね。そんなに悪い人という気もしないのですが、叔父が亡くなった時には母が『亡くなってくれて、ありがとう』と言っていました」

これで、理髪師の話はおしまいである。この文章は、理髪師の話を記すためのものだから、自分もここで筆を擱く事にする。

鶏の足を食う

ある日の夜、フェンが僕にこう聞いた。

「鳥の足あるよ。ゆうゆ鳥の足食べるか」

ゆうゆというのは、フェンが僕を呼ぶ時の呼び名である。

「いいよ」

僕は断った。

鳥の足というのは、中国で食べる物で、鶏の後足を甘辛い味付けで煮て、足指のひとつひとつの周りに付いている皮を食べるのである。味と食感は、焼き鳥の皮を思って貰えれば正しい。

確かに味は美味しいが、ちょっとグロテスク過ぎて、自分は食べる気がしないのだ。

鶏肉は鍋にすると美味しいが、鍋にする鶏は、鶏が生きていた時の原形をとどめていない。しかし、これは指や指の節の形がはっきり残っているのできつい。それでも、山東済寧市を訪れた時には、「これも経験だ」と思って食べたのである。その時に一緒に出たトサカは流石に食べられなかった。「これも経験だ」とは思えなかったのだ。経験したくなかった。

一晩寝て起きて、冷蔵庫を開くと、クリスマスチキンのような、骨付き鶏もも肉が入っていた。

「鳥の足というのは、この事だったのか」

僕は合点した。

そして、夜、「鳥の足」を食べた。

足というのは、部位を示す言葉であるが、その指示する範囲は広い。フェンにそれを教わった。

『アデナウアー - 現代ドイツを創った政治家』 (中公新書) を読んだ。

筆者も書いているように、吉田茂を想起させる政治家だ。

外交家で、ヨーロッパを志向した。戦後の礎を築いた政治家。

そうしたアデナウアーの特徴は、僕の中にある吉田茂の戦後政治のイメージと重なり合う。

ドイツでは有名な政治家だそうだが、自分は不勉強で知らなかった。

ドイツでは、ヒトラーとの対比でアデナウアーが語られる事があるそうだ。片方は、若い、ドイツを破滅に導いた政治家。片方は、年寄りの、ドイツを繁栄に導いた政治家。

ただ、僕が思うに、確かにそれもコントラストの強い対比にはなるが、あまりにも違い過ぎて、比較するのが難しい。それよりも、僕が面白いと思ったのは、本書の中で語られる、アデナウアーの政治と、ヒトラー台頭以前のドイツがそうであった、人の意見を全て平等に扱う民主政治との対比である。

アデナウアーの政治は、民主主義を志向したものでありながら、権威主義的、家父長的であり、ドイツがヒトラー台頭前にそうであったような、単に人の意見を全て平等に扱うという立場ではなかったという指摘が本書の中で出てくる。

これは民主主義そのものを否定的に扱う政党の活動、第一次大戦後当時の共産党ヒトラーナチス党などの活動を許した事が、ドイツを破滅に導いたとの認識から、アデナウアーが取った方針らしい。ナチスに代表される極右、共産党に代表される極左的な活動は全体主義を目指し、結果として民主主義そのものを破壊するとの認識である。戦後のドイツ政治はこれらの主義主張に対し、第二次世界大戦前のような融和的な方針を取らなかった。その戦闘的な態度は「戦う民主主義」と呼ばれているそうである。

この事を自分なりに考えてみる。

① 民主主義には、政治対立を社会の内部に取り込むという意味がある。政治上の意見の対立があっても、それは議会での議論や、選挙を通して、社会の内部で解決され、基本的には武力革命、内乱といった事態にはならないのである。もちろん、その国の一部が独立してしまえば、対立は国家間のものとなり、両国を通して行われる民主主義的な枠組みがない限り、戦争も起こり得る。アメリカの南北戦争のような場合である。しかし、もうその時には、民主主義は対立国を内包する形では存在していないのであるから、それは民主主義の限界というよりも、民主主義の外側に問題が移ってしまったというべきだ。民主主義が成立している枠内において、民主主義が政治の変化を内包しているという事実に変わりはない。

② そうした前提に立って、第一次世界大戦後のドイツにおける民主主義を振り返った時、政治変化を社会内部に取り込むはずの民主主義のシステムが、民主主義そのものを破壊するような全体主義政党の活動までを含めて政治の自由を認めたために、結果として民主主義そのものがなくなってしまったとの反省があった。①で述べたように、民主主義自身は、現在民主主義が機能しているのが特定の国家内であるとの理由から、国家間の戦争に対する直接の歯止めにはならないものの、その思想そのものが戦争に対して批判的である。その理由は、民主主義が成り立つ枠内との制限はあるものの、政治問題を議論や投票によって平和的に解決できるという事が民主主義のシステムの主張であるためである。そのような考えの元に運営されている国にとって、戦争や革命はもはや止むを得ない政治の手段ではなく、単に民主主義が実現していない事によって起こる惨禍に過ぎない。つまり、戦争及び革命は避けられる不幸であると考えられるのである。全体主義であるナチスドイツの活動は、武力によって自己を拡張しようという運動であり、政治問題の平和的解決を主張する民主主義とは相容れないものである。

③ 上記①②を踏まえて出てくる結論は、以下である。

1.民主主義自身は、特定の政治的な主張を持たず、単に政治問題を解決する仕組みを提供する。

2.しかし、民主主義の政治問題解決システムそのものを破壊するような政治的な主張に対しては、これを拒絶するべきである。

 

つまり、民主主義体制は、民主主義を否定しない範囲において政治の自由を許容すべきであり、民主主義そのものを否定するような活動を容認すべきでないという事である。これが、第二次世界大戦後のドイツが出した答えである。

 

自分自身の考えとしては、政治上の政策については、その体制如何に関わらず、その時、その場所で為すべき政策があるのであり、主権者が国民であろうと、大名であろうと、誰であろうと、変わりはないのではないかと思っている。現に、今民主主義を行っている国でも、投票率は様々であるし、国の政策を全て理解している国民は多くないであろう。斯く言う自分も、どちらかと言うと、分かっていない方に含まれる事を自覚している。

自分が重要と考えているのは、主権者が誰であるかではなく、誰のために政治を行うかである。全体主義の目的は国家であった。このために、国家のために人民を犠牲にした。これは誤りであったと思う。そうではなくて、人民のために政治を行わなければならない。しかも、一部の人のためではなく、万人のためでなくてはならない。この点を誤解していたために、ナチスドイツは失敗したのである。また、ソビエトや過去の中国の失敗も、結局は特定の階級のための政治であった事に起因するのではないだろうか? 万人のための政治でなければ、結局は行き詰ってしまうように思われる。

そうした立場から考えてみると、戦前のドイツの失敗は、全体主義が人よりも国家を優先したために起こったのである。 民主主義云々は直接の原因ではない。しかし、民主主義によって、すべての人に政治上の権利があれば、結果として、その政治は、民主主義に参加している人の範囲においては、「万人のための政治」にならざるを得ない。それであるから、民主主義を保護する事が、政治の正しい方向を保つ事に役立つと思う。

付け加えると、なぜ自分が民主主義体制そのものを擁護せず、「万人のための政治」を考えるかというと、そういう方針で行われた政治については、所謂封建的な政治体制下であろうと、社会主義体制の国であろうと、やはり正しい政治の方針として考えたいからである。つまり、社会体制に最終的な政治の根拠があるとは、考えたくないのである。

 

さて、話を元に戻すと、ドイツとしては、自分の歩んできた道を真摯に反省した結果、上述の結論に達した。この態度の先鞭をつけたのが、アドナウアーだったのである。

 

アデナウアーの政治について感じた事は他にもあるが、だいぶ長くなったので、ここで一区切りとする。

フェンの主張

「私達は一緒にいられない」

と言う。

「あと何十年かしたら、死んでしまうから」

と。

永遠に一緒でない限り、それは短い時間に過ぎない。

フェンの主張は、自分を驚かせた。

結婚したばかりで、これからずっと一緒だと思っていた自分を。