野狐消暇録

所感を記す

映画「クマのパディントン」を観た。

自分としては、『スヌーピー THE MOVIE』が観たかったのだが、フェンが観たいと言うので、一緒に観た。これはイギリス映画らしいのだが、英文学者の吉田健一が言う所の「巨人の饗宴に列席させられている気分」がちょっとあって、「イギリスっていいよなぁ」という気持ちにさせられた。この「巨人の饗宴に列席させられている気分」というのは、ある強烈な個性を持った人間が登場して、観客がそのキャラクターに対する倫理的、あるいは世間的な判断を停止させられてしまい、何か「おお」と圧倒されてしまうような事である。ホームズや、不思議の国のアリスなどにある「イギリス的なキャラクターの強さ」というコクのある飲み物をまた飲まさせられた感じだ。

 

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このブログは、ネタバレを大いに含むので、これから映画を観る事を楽しみにしている人は見ないでほしい。

====================   注意   =============================

 

映画は、かなりユーモアがある感じだった。本当に、あらゆる場面にユーモアをまぶしてある。決して忘れまいとしているように、そこここにあって、僕は、映画を見て、10回以上声を上げて笑ってしまった。割と自分は、この映画のユーモアとセンスが近いらしくて、本当に笑ってしまった。

映画はファミリー映画で、パディントンと同じぐらい、パディントンを受け入れたイギリスの家族が主役だ。お父さんは、リスクを計算するのが仕事で、家にクマがいると、リスクが4000%上昇する、と計算した。もうここで面白くて笑った。お母さんは、本の挿絵画家で、ヒーローの顔をどうしようか決めかねている。こういうキャラクター、エビソードの置き方が、センスいいし、愉快だ。

お兄さんは工作少年で、色々作っているが、実験に失敗した事が原因で、父親から安全な教材しか触らせてもらえなくなってしまっている。しかし、その教材を使って、模型鉄道や模型の飛行機のようなものを作っている。何かこの、好きにやって失敗して、禁止されて猶、やろうしている感じに、面白さを感じる。

この辺は、さっき言葉を引用した僕の好きな作家、吉田健一が言う「困難を跳ね返す事に生き甲斐を覚えるイギリス人」なのかもしれない。

お姉さんは、中国語を勉強中。パディントンが来てからは、クマ語も勉強し、パディントンに「発音がいい」と褒められたりしている。

お父さんは、子供達の安全を第一に考える余り、パディントンを追い払おうとするが、お母さんがまず反対し、お兄さんもパディントンが気に入り、お姉さんも、パディントンがスリを逮捕する手柄を立ててからは、パディントンを受け入れるようになる。このパディントンというのは、あまり責任を人に押し付けるような所がなくて、なかなか男らしい、そして健気なヤツである。それで、家族に嫌がられていると知ると、置手紙を残して、一人去っていくようなヤツなのである。その場面で自分は泣きそうになるのである。感謝だけを述べ、恨み言ひとつ言わずに去っていくパディントン。自分がいるとご迷惑でしょうから、と言って去っていく独りぼっちのクマを、可哀想に思わずにいる事は、どんな人間にも難しい事である。

それで、結末は、色々な伏線を残さず回収しながら、ちゃんとオチまで行き、ご近所の意地悪なカリーさんも、結局恋の道化を演じて、観客は彼を恨まないのである。

一番の悪役の博物館の女ですら、服役の代わりのボランティア活動で、動物園の掃除をさせられたりして、あまり憎く思う事ができない。

自分は、最後まで作品を観終わってから、何か、イギリス人の好む人間性というのを、この作品はユーモアと共に、人の心に届けているような気がしたのである。

僕は漢詩が好きで良く読んでいるのだが、杜甫の詩には、ただ美しいだけではない、人間性というのが感じられて、そこに感動する。論語を読んで感じるのも、やはりある種の人間性である。

これは中国の映画ではないし、杜甫の詩や孔子の生き方とは全く異なる世界ではあるものの、やはり何か、そういう人間性の響きというのがあって、これはとても大切な物だと思った。

美しい物も良いし、面白いものも良い。ただ、何か作品に、人の心というのが宿っていると、それはまた別格の良さを持つと思う。

この作品を観て感じたのはその事である。

フェンは作品を観終わった後「人間らしい映画だ」と言った。自分は軽く驚いて「自分もそう思う」と言うと、「最初から分かっていた。観て良かっただろう」と言う。「確かに自分は、あまり期待せずに観始めたが、いい映画だったよ」と自分は答えた。

新年会

2015年が終わろうとする、暮れの12月31日、神奈川県鶴見区の自分のマンションから、妻のフェンを連れて、神奈川県厚木市の実家へ帰省した。鶴見の部屋から出発するのに少し手間がかかる。これは独身の時と少し違った点である。

寒い。

京浜東北線鶴見駅で電車に乗り、横浜駅で乗り換えて相鉄線海老名駅で乗り換えて小田急線、最寄りの本厚木駅に着いて降りる。

バスに乗ろうとして、駅に程近いバス停に行く。時刻表を見てみると、あと25分くらいバスは来ない。自分だけなら、ちょっと落胆してそのままバス停で待つところだが、フェンが少し歩こうと言う。フェンは、知らない町に着くと、歩き回って、その町を知ろうとするのである。それで少し歩いて、バスのロータリーや、その町で一番大きな図書館の前を通り過ぎたりした。

しばらくして、やってきたバスに乗り、終点で降りた。実家に着くと、両親が迎えてくれた。あまり考えたくないが、両親が歳をとったと思う。

夕食を食べて、話をする。

フェンの母国である中国の話になる。何しろ、面白いから、その話になる。僕も、この間、二人で作った餃子の話をする。

「中国では、茹で餃子を食べるんだろう」

と父が言う。

「そうそう。餃子を皮から作る」

「焼き餃子は、余った茹で餃子を食べる時にするんだってね」

父は僕が言おうとした話をちゃんと知っていた。ちょっとがっかりした。

余った茹で餃子を翌日焼き餃子にして出してくれたのは、フェンの工夫だと勝手に思っていたのだが、それが中国では普通なのだと後から知り、自分は感心したのだった。

その話をしたかったのに、先回りされてしまった。

弟も途中から加わった。

弟は、僕の見た感じ、歌舞伎役者の海老蔵風のいかついファッションになっていた。男らしいという評判だと当人が言うので、

「その言葉の裏の意味を、家族の親切で僕が教えよう。それは、怖いという事だ」

と伝えたが、

「そうかなぁ」

と響かなかった。

どうも、自分と弟はうまくいっているのか、いないのか、良く分からない。

フェンから見ると、日本人の付き合いは、とても薄いらしい。両親についても、「本当の両親なのか?」と真顔で聞かれたぐらいである。

中国の付き合いが非常に濃いのだ。僕はそう思うが、個人差もあるだろうし、真相は藪の中だ。

大晦日にしては、みんな早く寝に行ってしまって、十時には、もう寝る感じになった。僕の鶴見の部屋にあるよりもずっと大きなテレビで紅白歌合戦を少し見て、早くも布団に入る。

布団が、僕とフェンの分、二枚敷いてある。母が敷いてくれたのである。後から分かったのだが、中国では、夫婦は必ず一枚の布団で寝るらしい。それで、フェンはちょっと不満だったようである。

僕はそんな事は知らないので、今日は一人一枚、広い布団で寝られると思って、すごく嬉しかった。どうも、女の気持ちに疎いという事になりそうである。

次の日は新年で、両親におめでとうと言う。旧年中から、実家に帰った折には、どこかに出掛けたらいいと父に言われていた事もあり、どこかに行きたいと思う。

色々考えた末、近所のお寺に初詣に行く。歩いて行ったら、片道2時間もかかってしまった。小さな山を登り、山頂の観音様にお参りする。線香を束のまま焚いて、屋根の付いた丸い器の中に満たされた炭に差す。これはどういう意味があるのだろうと考えていたら、「健康になるとかね」とフェンに言われてしまった。巣鴨に行った事があって、そこに同じ物があったのだそうである。

結構な人出があった。

帰り道は別の道を通った。途中のコンビニで、「コアラのマーチ」を買って、道々食べながら行く。二人でいると、自分では買わない物を買う。近い道を通った事もあり、割合早く家に帰ったが、それでも午後2時になっていた。遅い昼御飯を食べる。

それから、何をしたのか、ちょっと忘れてしまった。確か眠かったので、ぼんやりしていたと思う。海老名に行って、閑散としたビナウォークというショッピング街を散歩し、クレープを食べて帰ってきたのだが、それはこの日だったか、それとも翌日だったか。記憶がないので、次の日、すなわち、正月2日の事に話を移す事にする。

正月の二日、姉夫婦が来て、昼から新年会をする。僕が散歩好きなフェンと一緒に、近所の公園で遊んで、帰ってきた所で新年会になった。お寿司を食べて、近況を話す。姉は、スターウォーズの新作をまだ見ていないらしい。兄弟三人のうち、一番スターウォーズが好きなのに。

姉夫婦の子が一緒に来ていて、自分はお年玉をやる。金額は五百円である。まだ2歳だから、必要ないと父は考えていたようだが、僕はやりたくてやった。五百円は安いと父に言われて、

「そんな事を言ったって、父はあげないじゃないか」

と言ったら、父は笑った。

姉夫婦から、僕とフェンの結婚のお祝いにケーキを貰う。せっかくなので、ケーキを前にして記念写真を撮る。最近良く写真を撮るようになった。

弟が、友達にもらったというドローンを飛ばそうとする。最初バッテリーが切れていて飛ばなかったが、充電すると、しっかりと宙に浮かんだ。和室の天井にぶつかったり、柱のそばに寄ったり、なかなか忙しい。しかし飛んでいる間は、水平な姿勢を保つので、自分はそこに感心した。これは難しい技術なのではないだろうか。それとも、案外簡単なのだろうか。

それから、姉夫婦の子と電車ごっこをして遊んだ。この子はいつの間にか、喋れるようになっている。「やさしい」という言葉を覚えたらしく、それを言う。それから、何か話しかけると、それを鸚鵡返しに言うのである。父は、「じいじやさしい」と言って、甥にそれを言わせている。

更に一晩寝て、翌日に鶴見に帰った。

すっかり実家でのんびりしてしまった。またしばらくしたら、実家に帰ろうと思う。こんな事が親孝行になるなら、孝行も随分優しい。

青島旅行

青島は、中国語でチンタオと言う。島という名は付いているが、実際は島ではなく、港である。青島市は、山東省にある。北京からは、飛行機で、一時間ちょっとの距離にある。

結婚する相手の出身地が青島なので、親族に挨拶するために、青島市に行った。自分は神奈川県の横浜市に住んでいるので、成田空港から飛行機で行くのである。

結婚相手の名は、フェンと言う。フェンは2週間ほど前に先に中国に帰っていたので、自分が後から追いかける形で、青島市に向かった。

久しぶりに乗った飛行機は恐ろしかった。離陸してしばらく、生きた心地がしなかった。青島市に行く途中、北京空港を経由するので、まずは北京へ行く。

北京市を上空から見ると、同じ形の建物が並んでいるのが見える。他に、光の列が続いているのが、道路である。イルミネーションで光っている、舟を伏したような屋根の建物がある。日本で言えば、お寺の屋根か、門の屋根といった形。

北京空港での乗り換えは、一番不安であった。青島市に着けばフェンがいるから通訳してもらえて安心だが、北京では一人であり、誰も通訳してくれないからだ。

「transfer」と書かれた案内板に従って進む。同じ飛行機から降りた客に付いて行く。うっかり空港の外に出そうになる。周りの乗客はみんな北京に来た人だったのだ。国内線の方に行く。荷物チェックで中国語を繰り返されるが分からない。日本語で聞き返す。困って隣を見ると、後ろに並んでいた客がチケットを出して見せてくれた。係員にチケットを見せる。後から、顔が中国人っぽいし、国内線だから、中国語で何度も話し掛けられたのだと考えた。ボディチェックの時や後に会った係員には、英語で話しかけると、英語で答えてくれた。

北京から青島市にはすぐに着いた。飛行機も初回で慣れたからか、あまり怖くなかった。

出口で出迎えがある手筈であったが、顔が見えない。出口で会えない場合は、ここに来いと教えられた場所を探していたら、フェンの弟が見つけてくれた。

二人で迎えに来てくれたのである。

弟の運転する車でホテルに向かう。

ホテルに泊まる。

翌日のお昼頃、フェンのご両親に会う。ここで神田神保町で見つけてきた江戸時代の版画をプレゼントする。葛飾北斎富嶽三十六景「相州江の島」の複製である。義父となる人は、あまり言葉が多くない人である。義母となる人は良く話す。それから、結婚記念の写真で着る衣装を選びに行く。青島市内を車で走る。道が広い。歩道も広い。弟にそれを言うと、これでも狭い方だと言う。中国大陸は広いと言う印象。

日本の道はこれに比べると本当に狭い。

結婚写真を撮ってくれるお店で、衣装を選ぶ。4,5枚のウエディング・ドレスを選ぶ。一番いいコースを選んだそうで、等身大のポスターが巻物になった物も付いている。もちろん、普通のアルバムもある。正直恥ずかしいけれど、これは弟のプレゼントであり、フェンの一番の晴れ姿であるわけで、有難く受け取り、喜ぶ事にする。

写真を撮るのは翌日であるが、既にスマートフォンで、彼女の写真を何枚も取る。夕方に、親類の家に挨拶に行く。母方の兄弟の家である。

親類の住んでいるアパートに車が着いた時、既に辺りは真っ暗になっていた。アパートの一階のエレベータ・ホールが本当に暗い。ここには一つ、明かりがあってもいいだろう。エレベータに乗って、上階に昇る。扉が内側から開いた時、靴紐が解(ほど)けている事に気が付いて、靴紐を結び直していると、頭の上から、「ニイハオ」という男の太い声が響いた。「いいよ、靴紐は後で」とフェンに言われながら、靴紐を結び直し、部屋に入った。自分は、挨拶であるというので、日本から持ってきたスーツを着ていた。しかし、スーツの背中がしわしわだったようである。これは後から言われて知った。それはともかく、部屋に入った。林檎をご馳走になる。丸のままの林檎と、林檎の皮を剥く細身のナイフを渡されたが、自分がなかなか剥き終わらないので、Fが皮むきでさっさと剥いてくれた。林檎を丸のまま齧る。お酒を強く勧められる。しかし、「飲めない事にしてあるから、必ず『できない』と言って、断るように。できないは中国語で『ブーフイ』と言う」とフェンから言われていたので、『ブーフイ』と言う。しかし、あまり勧められるので、つい「She said me to say 『No』.」とその親類の男性に言ってしまった。訳すと「彼女が『ダメだ』と言えと僕に言った」という事である。これで益々勧められてしまった。当たり前である。しかし、自分としては、別に飲めない訳でもなし、そこまで勧めてくれるのを断るのが嫌だったのだ。しかし、絶対に断わるようにフェンに厳命されてしまったので、この後はともかく断る事にした。

その親類の男性、自分からすると、おじさんに当たる人だが、おじさんと話す。日中戦争を最近の若い日本人は知っているかと聞かれたので、歴史に興味がある人は知っているが、他の人は知らないと答える。僕が李白を好きだと言うと、好きな詩を教えろという。「げっかどくしゃく」とフェンに言おうと思ったが、これは聞いてもきっとフェンが分からないと思い、手で物を書く真似をして、おじさんから丸まりかけた紙とペンを借りると、「月下独」と書く。「酌」の字は出てこなかった。

どんな詩かフェンが聞くので、月と自分と影の三人で酒を飲む詩だと言う。おじさんはスマートフォンで調べて中国語で詩を読み上げたが、僕には中国語は聞き取れない。

帰る事になり、アパートを出る。おじさんは車の窓際で、酒を飲む仕草を繰り返し、最後まで僕を酒に誘った。車が出てから思うに、「She said me to say 『No』.」と言い、好きな詩に李白の「月下独酌」を挙げたのだから、飲めないと言ったって、信用されるはずがないのである。本当は、思い付いたたった一つの詩がたまたま「月下独酌」だっただけだ。でも、僕は酒の詩が好きであり、酒飲みの随筆も好きだから、あながち誤解でもない。「月下独酌」はその時勧められた酒の連想で出て来た気がするが、「一杯一杯復一杯」が面白い詩だ。その句の事もおじさんに言いたかったが、言いそびれた。

 ホテルに帰って寝る。次の日は、6:00 A.M.にホテルを出ると言う。案外ハード・スケジュールだ。

 

それで翌日、朝ホテルを出て、弟さんの運転する車に乗って、結婚写真屋さんに行った。店で出しているバスに乗ると、ロケ地を廻るのが遅くなるので、弟さんの車にしたらしい。しばらく市内を走って、海の見える所に出た。

車から降りて、結婚写真屋さんのロケ地支店のような所に着く。一階のロビーからして、赤い絨毯が敷いてあってそれらしい。二階に上がると、メイク室になっている。鏡が並んだスペースと、カーテンで隠れられる箇所が6つぐらい並んだ、着替えスペースがある。ちょっとした待合のようなスペースもあって、椅子とテーブル、テレビがある。衣装に着替える。中国語が全然分からないけど、身振り手振りと、片言の英語で意思を伝えるべく努める。最初に渡された衣装は小さくて着られないので、大きいものに変えてもらう。僕の着替えは割合すぐに終わった。フェンは時間がかかる。そこで待合で待つ。着替え終わったら、歩いて近くの海岸へ行く。カメラマンは鼻の下に少し髭を生やした、痩せた男。アシスタントは太った若い男。このアシスタントは光を反射する白い板を持っていて、被写体である僕とフェンに光を当てる。これから一日かけて、色々な場所に行き、様々な写真を撮った。喫茶店で椅子に座り、足を組んでいる所。フェンに駆け寄る所。海で顔を寄せる所。道を歩く所。スタジオでの撮影もあり、中国服を着て、おどけるというものもあった。日がとっぷり暮れるまで撮影は続いた。

傘を差して雨を避ける所を撮って、撮影会は終わった。撮っている最中は、言われるままにしているだけで、どんな写真が出来ているのか、全然分からなかったが、後で見せてもらうと、なるほど、あの時のカメラマンの狙いはこれだったか、となった。コントラストを活かした写真で、面白く撮れている。

 次の日は、車に乗って、済寧市に向かった。中国の高速道路に乗る。車を運転してくれた弟さんは、良く車の追い越しをする。済寧市から青島市に帰る時の高速道路で、こっそり車のメーターを見てみた所、120kmぐらいが普通にでていた。怖い。これは怖い。僕は後ろの座席に座っていたが、怖いので、シートベルトを締めた。弟さん曰く、「中国は時間を節約するから」との事だが、弟さんの運転する車に追い抜かれている車も沢山ある訳だから、これはドライバーの性格ではないかと思った。

途中、パーキングに停まった。トイレに入ると、小便をするときに、目の辺りにある壁に漢詩が書いてある。珍しいし、面白いので、写真に収めた。すると、掃除をしていたおじさんが笑って、もっと撮れと仕草をした。それと、パーキングだったか忘れたが、中国のトイレで見たのが、「人小一歩、文明大一歩」とかいう文字で、おそらく、月面に始めて降り立ったパイロットの、「これは人間には小さな一歩だが、人類には大きな一歩だ」から来ているのではないかと思う。これは、小便が周りに飛び散らないように、一歩前に出て用を足すように、との意味であろう。

中国語は漢字からできているので、日本人でも少し読め、意味が分かる部分がある。ホテルで見て面白かったのが、「小心地滑」という文字で、シャワールームにあった。これはタイルが滑るから気を付けよとの意味だろう。中国語の発音は分からないから、見る度に「しょうしんじすべり」と読んで、面白がっていた。

あと、「超市」というのもあった。これは、勘のいい人は、あるいは分かるかもしれない。「スーパーマーケット」の事である。謎解きみたいである。

高速道路を5時間ぐらい走り、済寧市に着いた。親戚がこちらに住んでいるのだ。フェンの姉の夫がやっている広告品店に確か行ったと思う。ちょっと正確にどうしたか忘れてしまった。この広告店のある所は、砂埃がすごかった。ここでザッザと会った。これはフェンの姉の子で、男の子である。あと、トートにも会った。これは、誰の子だったか。正直色んな人と会い過ぎて、誰が誰だか、分からぬのである。

この企業向けの広告用品店で、椅子を勧められて座った。ここでお茶を飲んだと思う。お茶は、茶葉がコップに直接入っていた。これが美味しかった。少なくなると、すぐに注いでもらえるので、沢山飲んでしまった。

ちょっとこの辺りから、何が起こったか、忘れてしまった。しかし、最も重要な事は覚えている。それは、親戚を集めての結婚披露の席が、翌日か、翌々日の昼頃に行われた事である。

親戚の共産党員のお兄さんと一緒に、お酒をお盆に載せて、親戚の中を注いで廻った。中国風の丸い、大テーブルを囲んだ人達の中を、お酒を注いで廻るのだ。中国の習慣との事である。二人の名前入りの水筒も配った。これは結婚記念の品である。

親戚が車で帰っていくのを、フェンと二人で手を振って見送った。これも中国流の礼儀である。

この集まりで食事をした二階の席の窓から外を見たら、建物の傍で鶏が飼ってあった。玄関を出た所でも、解体した犬か何かの動物を見た。

ちょっともう出来事が起きた順序を忘れてしまったが、他に、田舎に住んでいる親戚にも会いにいった。この時にフェンから聞いたと思うのだが、中国では、名字が同じで、近くに住んでいる人は、血のつながりがなくても、結婚式に呼ぶのだと言う。

 それで、かなり田舎に行ったが、そこの人も、血の繋がりはあったか、なかったか。まぁそういう人も親しく付き合うのだから、中国の親戚付き合いの濃さが分かる。この旅行中、僕は1回も中国のお金を払わなかった。ずっとフェンの家族が払っていた。すごく恐縮したのだが、こういう親切を断るのはおかしい、必ず受けて、感謝する方が良いと思ったので、有難く受け取った。

さて、話を戻すと、その親戚の住んでいる所に行くと、家が煉瓦で出来ており、家を囲う壁は石の壁であった。そして、犬がいて、玄関を入ると吠えた。

ここでお婆さんに会った。子か孫が日本に行ったと言う。でも、ちょっと日本語を学んでいっただけなので、苦労しているらしい。昨日もやりとりをしていたと言っていた。

お婆さんは、結婚のお祝いか、お小遣いといった感じでお金をくれた。フェンに断わるように言われて、テーブルの上にそっとお金を置くと、気付いたお婆さんが、すごい勢いでポケットにお金を突っ込んでくる。このお金は、お婆さんと別れる時、フェンのお母さんが車の窓から、見送りをしていたお婆さんに投げた。

日本でも、どちらがお金を払うかで、レストランのレジで揉める事はある。でも、ここまではない。それで印象に残った。

それから、孔子の故郷である山東省の魯、曲阜という所に行った。今は観光地になっている。写真を撮りまくった。親戚の双子の少女が一緒に来たいというので、一緒に見て回った。孔子のいた時代の様子を再現した所を見た。

この双子と、あともう一人親戚の子と仲良くなり、帰る前の日は一緒に遊んでいた。

 

結局中国には、7日間いた。9日間の旅行で、最初と最後の1日は、飛行機に乗っていて、ほとんど何もしていない。

旅行の最中は、全部旅先の親族がお金を払ってくれた。ホテルも、毎日の食事も、全てである。別れ際、フェンの母親、つまり義理の母が言っていた。「子供が出来たら、また来い」と。僕は頷いて約束した。それが、僕は彼女の最も言いたかった事であるように感じた。だから、僕にとって、それは最も大切な約束である。

自分はたくさんのお土産を貰って、帰途に就いた。

2016年の抱負

去年2015年の新年の抱負を読み返してみると、Android開発、ネットワーク関係の勉強が目標だったようだ。Android開発は、たぶんオセロを作った辺りでおしまいで、やったはやったけど、微妙だった。年の後半は全然やってないんじゃないかと思う。ネットワーク関係では、ネットワーク・スペシャリスト資格を取るという目標を立てていたが、未達成だった。受験すらしなかった。

しかし、2015年の目標の最後に書いた、結婚するという目標は達成した。フェンと結婚としたので、一番重要な目標は達成したと言えよう。

さて、続いて今年の目標を考えたい。

今年の目標は、実は面白味がない。資格を取る事を目標にしてしまったからだ。データベース・スペシャリスト試験を春に受けるので、それの合格がひとつ。これに受かっても受からなくても、秋には、ネットワーク・スペシャリストか、もしくはセキュリティ・スペシャリストの試験を受ける。

なんかなぁ、他にも目標が欲しいな。特に実装というか、実際に何かを作りたい気はする。

◆ 自分なりに、何かアプリケーションを一つ作る。

やっぱりこれかな。これがないと、色々、手を動かす事がなくなってしまうので、これが必要かなと思う。

そんな訳で、

① 資格を最低ひとつ取得する。

② アプリケーションを最低ひとつ作る。

この二つを目標にしたい。

あと、せっかく結婚したので、フェンを大切にしたいと思います。

出光美術館「日本の美・発見X 躍動と回帰 ―桃山の美術」展を観に行った。

好い天気で、有楽町駅周辺は人出があった。シルバーウィークの最初の日だ。

帝国劇場の前に来ると、アイドルの劇の大きな張り紙があった。ジャニーズが出ているようだ。幾人かの若い女性のグループが劇場前にいて、写真を撮ったりしていた。自分は写真を撮る妨げにならないように、彼女らの後ろを通り、劇場の入口の隣にある、出光美術館の自動ドアの前に立った。

財布を広げると、中には観覧に充分なだけのお金があった。エレベータの近くに良い身なりをした男性が立っており、自分が自動ドアを入ると、昇りのボタンを自分の代わりに押してくれた。

出光美術館は、何度も来ている。国文科の学生の時、授業で書の展示を観に行った事もある。

ライトを落とした、静かな受付に、数人の女性スタッフが落ち着いた服を着て座っていた。チケットを買い求めて、展示ルームに入った。

自分は学生時代茶道研究会でお茶を点てていたのであるが、展示品は、自分がかつて茶道具の本で見た事があるような、価値が高い品ばかりだった。

もちろん、本で見た事のない展示品も多く、とても楽しい時間だった。

マンガで織部を主人公にした「へうげもの」というものがあるそうである。自分はその作品を読んだ事がないが、作品の存在は知っていた。展示品を見て回っていたら、織部焼の説明の中に「『宗湛日記』に『へうげもの也』とある」とあった。それで、マンガ「へうげもの」の題名の由来はここかなと思った。しかし、確認はしていない。

織部焼は見ていて楽しい。作成された当時「へうげもの」と宗湛が記したという事は、当時の認識として、遊び心のある、おどけた感じとして受けとめられていた事になるが、そう思って観てみると、確かにそう見えてくる。

今回の展示を見るまで、自分の織部焼に対する認識は、大きな歪みと、印象的な緑色の釉薬であった。あとは、図案のようなものが筆で書かれていて、大体その筆の色が焦げ茶色、というぐらいである。

今回展示された織部焼を見ていて、新たに気付いた事がある。それは、器の縁が垂直で、器の底が水平になっており、縁と底が垂直に交わるという事である。鳥をモチーフにした器が5,6個のセットになっていたが、それなどは、縦に重ねると、綺麗な柱ができそうであった。実際には、工業製品のように、綺麗に作られていないから、重ねる事はできないかもしれないが、印象としてそう感じた。

この事と合わせて述べたい事は、利休が作った茶杓についてである。一体、当時から評価の高い利休が作ったとはいえ、あんな小さな茶杓がちゃんと今に伝わっているというのはすごい事であるが、それは一旦脇に置くとして、その茶杓、抹茶をすくう匙の部分と手で持つ柄の部分が、やっぱり割とはっきり曲がっている。ゆったりしたカーブではなくて、結構鋭角に曲がっているのである。匙の部分は真直ぐしていて、柄も途中にある竹の節の周りを除けば真直ぐである。だから、極端に言えば、一本の竹を細く削り出し、匙と柄を分ける部分に何かを当てて、ぐっと押し曲げたような具合に見えるのである。

この二つの直線、織部焼の直線と利休の茶杓の直線を見て思い出すのは、茶道に詳しい仏教学者、久松真一の著書「茶道の哲学」に確かあったと思うのだが、茶道は直線的であるという指摘である。和様の書にみられるような優美な曲線が茶道にはないという話である。自分は読んだ当時、正直あまり分からず、「詳しい人がそう言うのだから、まあそうなのか」位の曖昧な感想であった。しかし、今回見た茶道具については、確かにそうかなという感じがある。

以前自分が久松氏の主張に疑問を抱いたのには、訳がある。

茶道で掛け軸にかける墨跡は、楷書ではなく草書なので、曲線がたくさんある。茶道具は歪んでいるものの方が茶道らしいとされるため、これも曲線がたくさん見られる。そうなると、「茶道は直線的である」という指摘の反例がたくさんある事になる。これはおかしいと思い、納得がいかなかったのである。

今では、単なる傾向の指摘であり、全て直線で構成されるとしているのではなく、指摘のポイントは「茶道は王朝文化的な優美さとは違う文化である」という事だと考えている。

それからもうひとつ、様々な工芸品を見ていて思ったのは、やはり工芸品は道具であるという事。あくまでも、生活空間を作る物のひとつとして、その品がある。その美術品ひとつで、何かの世界を作るのではなく、生活空間の一部に品物が溶け込み、茶道なら茶道の世界を作る。茶道の世界を作るための、登場人物のような感じだ。

多分、その世界では、人間も一個の登場人物であり、ある意味で、工芸品と等価なのではないかと思う。人と物が平等の世界なのかもしれない。

これは、ちょっと現代の政治状況もあって思ったのだが、茶道が流行った当時は、戦乱の末期であった。当時の武将は、他方で戦をしながら、他方で茶道をやる。ちょっと矛盾しているようだが、やっぱりこういう世界が欲しかったんだろうな、と思った。分かるな、と。

利休のような町人は、そういう事はなかっただろうが、武将は戦をする事がある。戦ばかりでは、とても息がつけないだろう。殺伐とした世界に生きていた武将が、こういう安息の地のような物を作って楽しむというのは、如何にも理解できる事だ。

もう当時から400年以上経っているが、僕は当時の人の気持ちが分かるように思う。

個々の展示品に対する感想もあるが、切りがないので、この辺でおしまいにする。

言葉から先に知る事

経験を言葉にするのは楽しい事だ。自分が味わった事が、言葉の世界になって立ち現われてくる。文章を読む時はこれの逆が起きて、言葉を先に知り、その向こうに誰かの経験がある。

自分は最近、女を猫に例える事が適切であると知った。文章の世界、またイラストの世界でもいいが、女を猫に例える事がある。そういう文章を僕は読み、言葉は知っていたのだが、その向こうにある経験がなかった。また、そこに経験がある事すら、殆ど想像していなかった。ただ、女の可愛らしさ、或いは少女の可愛らしさを猫に擬しているのだと思っていた。それがあるとき、女は本当に猫みたいなのだと知った。

それはどういう事かというと、ある力学が働いてるという事である。男女関係における力学である。媚びている方が王様である、という事だ。そういう現実があり、その残酷さを僕は知らずに、ただ女を猫に喩する文章を読み流していたのだ。

他に似た経験があって、それは感謝するという言葉である。感謝するというのは、そういう一種の気持ちだと自分は考えていたのだが、ある時、単なる気持ちではなく、ひとつの態度なのだと経験から知った。どうにもならない事であるにも関わらず、自分にとって有利な事柄に対してとる態度が感謝なのだ。だからこれは単に感情に限って考える事はできない。現実に対する認識と、認識から起きて来た態度を指すのだ。

他にもある。

論語の文章を僕は最近少し読んでいる。とても納得できる話が多い。僕は子供の頃論語を開いた事があったはずである。しかし、その頃よりは、よりはっきり理解できていると思う。孔子ならきっとこう言うのではないか。そんな事が読んでいて感じられる。

これは社会人になる事で、ささやかではあるが、論語に対する理解を支える経験を得たためだろうと思う。論語の文章の向こうにある思想、-- 社会的、政治的な分野に於ける人間性 -- を理解するための素地を得たので、論語の文章をただの概念としてではなく、人の経験に根を下ろした言葉であると感じるようになった。

文章を読む時、ただの言葉としてまずは受け取る。その言葉に対応する経験がなければ、どうしてもそうなる。しかし、ある時、その言葉の向こうにある経験を、自分自身の経験を通して、了解する事になる。また、自分が書いた言葉、発した言葉も同じような経緯を辿るかもしれない。

これは面白い事である。

「土星の苦悩」(西脇順三郎)を読む。

まず、西脇順三郎を説明すると、この人は詩人である。

僕はかつて、この詩人の詩を読んで、驚いた。

それは、僕がまだ社会人に成る前、日本大学の国文科に在籍していた頃の事である。僕は近世のゼミに所属し、俳諧を専攻した。

俳諧というのは、ご存じの方も多いと思うが、俳句と呼ばれる五七五の短い詩の前身となったものである。

俳諧は今日では連句(れんく)と呼ばれていて、発句(ほっく)という五七五の句に続けて、七七で脇(わき)という句を付ける。ある句の次に別の句を並べて詠む事を「付ける」と言う。また付けた句を付け句という。この付け句は、前の句に良く合っていて、しかも似過ぎないような、ぴったりな句を付けるのが望ましい。七七で付けた脇の次には、また五七五で付ける。これを第三(だいさん)と言う。第三の次は、もう予想が付いたかもしれないが、また七七で句を付ける。この4つ目の句に特別な名前はない。

そうやって、五七五、七七、五七五、七七と繰り返し句を詠むのである。これは普通複数の人が集まって行う。この集まりを座と呼ぶ。

さて、この俳諧乃至連句を学んでいると、俳諧の詩の組み立て方が理解できる。それは、取り合わせの詩とでもいうべきものである。ふたつの異なる物を並べる事で詩の世界を作る。これは江戸の頃、既に俳人の間で言われていた事で、最近になって発見された事ではない。

さて、取り合わせの詩の代表として良く挙げられるのは、以下の句である。

市中は物のにほひや夏の月(凡兆)

正確な意味は忘れてしまったが、確か句の意味はこうである。

市に人が出ていて、夏で暑い。物の匂いというのは、何の匂いか分からないが、いずれにしても、混雑しているから匂うのだろう。誰もいない、野原のような広い所であれば、物の匂いはしないだろうから。

しかし、そういう人の営みの、騒々しい市中から空を見ると、夏の月が出ている。この夏の月というのは、確か詩の約束として、涼しいものと決められている。つまり、夏の市中の雑踏と、夏の空に遠く掛る月、またその月がある所の夏の空の澄み切った広がりが対比され、ここに詩が生まれているのである。

 図式化すると、以下である。

①市中

②夏の月

対比されているのは、①と②であると言える。

さて、取り合わせの詩の説明が一通り終わった所で、話を西脇順三郎に戻す。

西脇順三郎氏の書く詩は、本人がどこかで書いていた通り、この取り合わせの詩である。西脇順三郎氏は、「なぜ異なるものの組み合わせが私たちを面白がらせるのか、そこに到ると、頭を下げたい気持ちになる」という意味の事を、これとは異なる言葉で述べていた。自分はその、西脇順三郎の詩をそれと知らずにある日読み、「江戸時代が過ぎた現代においても、取り合わせの詩を書いている人がいるのだ」と思って驚いたわけである。

ようやく話がこの文章の冒頭に戻ってきた。プログラムの言葉で言えば、随分深いスタックであった。スタックと言うのは、プログラムで使う技術のひとつで、文章で言うところの引用のようなものである。引用した文章の中に引用があれば、スタックが二つ溜まる事になる。ふたつ目の引用から一つ目の引用に戻ってきても、まだ引用を読んでいるのである。つまりスタックがひとつ残っている。最初の引用を読み終わると、最初の文章に戻る。ここでようやくスタックが空になる。

西脇順三郎氏の短編について書くつもりで、西脇順三郎氏についての注釈を書き始めたら、随分長くかかったので、スタックが深かった、などと書いたのだ。

 さて、そういう経緯で、自分は西脇順三郎氏の詩に出会い、これに夢中になったのだったが、人生はままならぬもの、そして時にはままならぬ方が良いもので、自分も就職する事になった。遊んでいる事はできないという訳で、自分の選んだ仕事に就いて、働き始めた所、なかなか仕事がうまくいかず、四苦八苦しているうち、文学から離れてしまい、従って西脇順三郎の詩も読まなくなった。

しかし、三つ子の魂百までの諺通り、そう簡単に好尚が変わるものでもない。一度好きになったものはやっぱり好きなので、仕事に余裕が出来てくると、またぞろ本を読むようになり、ある日書店で西脇順三郎のエッセイ集「野原をゆく」を見つけて、これを購入した。それがつい先日の事である。

暇がある時に、ちょっとづつ読み進めたのだが、その中に入っていた短編小説「土星の苦悩」がちょっと面白かったので、ここに感想を記す事にするのである。

それで、この題名の「土星の苦悩」だが、これがまた西脇らしい取り合わせの詩になっていると思う。「土星」と「苦悩」を別々に読めば別に何という事はない言葉だが、ふたつ組み合わせて「土星の苦悩」と来られたら、やっぱり面白いと思う。

この小説の内容だが、いくつかの章に分かれており、それぞれが別の話になっている。ある教員の話、あるおかみさんの話、川を上って行った所の温泉で、昔の同級生に会う話などである。違う話が並んでいるのだが、いくつか共通点もある。

それは草木への関心である。

この小説には、草木への言及がたくさんある。これは西脇順三郎が草木を好んでいるためであろう。自分はこの小説を読みながら、登場する植物や木について、端から調べていった。スマートフォンを用いて画像検索を行い、草木の見た目を知ったのである。調べる事で、自分はその草木が何であるか分かったが、もし調べずに読み進めていたら、半分も分からなかっただろう。ケヤキの木ぐらいは分かったが、後は名前は知っていても、思い浮かべる事ができない植物が殆どであった。もっとも、難しい学名が記してある訳ではないから、庭や植木に関心がある人なら、おそらく大体は分かるレベルなのだろうと思う。少なくとも、西脇氏は全部知っていて書いただろう。西脇氏が植物を調べながらこの短編を記したとは思えない。

さて、他にも共通点はある。それはどの章も、日記のような書き方をしてあるという事である。教員の章は少し純文学風であった。これはおそらく、知識階級調とでもいうべき調子があるからだろう。おかみさんの章は、江戸っ子風な所があった。これは町人風に書いてあるという事になるかもしれない。文章から何となく、社会生活が透けて見え、それがアクセントになりつつ、あまり社会生活は前面には出てこずに、雑然とした出来事が並ぶ。何かそこが日記風という感じに受け取れるのである。

全体がそんな調子なのだが、共通点を考えるとなると、当然の事ながら、文体についても触れねばならない。なぜなら、文体はこの小説全体を通して同じであり、小説から受ける全体的な印象に影響を与えているからである。それで文体は、特にこの小説のために考えた文体という感じでもなく、西脇氏のいつもの文体である。これがなんとも不思議な文体である。一言で言うと、固定観念を全く無視して自由に記してある感じが自分はした。文章というのは、場合によると、物事に対する感想までが、固定的な観念に沿っている。時事的な事について書く文章は、最後に世の中を憂えて終わらねばならないとか、さっきの俳句の話ではないけれど、ロマンチックな場面を描いた文章では、梅に雪が降り積もらねばならないとかである。この小説では、そういう定型的な文言が破られており、姿を見せない。しかし、別に気負って何か、特別な文体を用いたという事でもない。しかし、既成の観念に寄り掛かっている所がまるで見られない。文章の規則という点では、かなり自然な文章に近く、特別な書き方をしている訳ではないが、定型的な観念に従っていないために、どことなく新しさというか、個性のようなものを感じるのである。これは面白いとしか言いようがない。

そんな訳で、草木ばかり出てくる小説だが、興味を持たれた向きは是非読んでみて下さい。